修験

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古来からの神仏崇拝は、仏教の普及につれて次第に変質し、仏を本地として神を垂迹(すいじゃく)と仰ぐようになった。中世の神社は本来的な神の社としてよりも、むしろ仏教的色彩の濃いものになったのである。同時に神道の理論も南北朝を契機として樹立され、山王一実神道や両部神道などの教団が形成され、それぞれ活発な布教活動が行われた。なかでも紀州熊野三山の御師や先達、それに伊勢神宮の御師や道者が、全国的に教線を拡げた。このうち先達や道者は主に在地にあって在郷の檀那と御師の中に立ち、これを結びつける役割をになった者であり、山伏あるいは山臥ともよばれる修行僧であった。

 これら山伏のなかには、在地で勢力を扶植し、支配者からその屋敷地などを安堵される者もいた。この典型的なものに葛飾郡赤岩郷川藤(現吉川町)の大泉坊がある。「武州文書」によると、大泉坊は江戸時代大泉院と称し、幸手不動院の霞下で行光山と号している。この当主は渡辺氏を称し、丹波国大江山の凶賊退治で著名な渡辺綱の子孫であるといい、渡辺綱が用いた笈などが家宝として残されていたという。さらに当家には関宿城主簗田助縄が大泉坊に与えた天正十六年(一五八八)の判物を五通所蔵したとある。その一通は

     赤岩新宿不入之事

   一 押買狼藉郷質国質取間敷事

   一 御持之内諸役并つりう有之間敷事

   一 兵粮五升切、市之日斗可出之事

   一 子年より未之年迄八年可為諸不入事

   一 荒地之儀従子年未之年迄広野事

   天正十六年戊子(朱印)二月三日

とある。すなわち押買狼藉を禁じる、郷質国質をとってはいけない、所持地の諸役や河岸場の税はとらない、荒地は当年から未年まで八年の間に開発する、この八年間は諸役は課さない、とある。そして市(いち)の日に限り兵糧米五升宛を徴収するとあるので、おそらく赤岩には当時市がたてられていたであろう。つぎの一通は同じ日付で、大泉坊宛に

  右赤岩新宿屋敷之内拾間諸不入被任末代候、猶百姓被引付、宿中可被立之者也、仍如件

   戊子二月三日            助縄 花押

     大泉坊

とあり、赤岩新宿の一〇間(あるいは一〇軒であるかも知れない)の地は、末代まで大泉坊の持地として諸役不入とする。なお百姓を集めて宿立できるようにすること、という趣旨が記されている。つぎの一通も大泉坊宛に、同じ日付で

  其方屋敷不入之儀承候、同行下人共に十かまど尤に候、但此外之者被指置に付而は、至于其時御用可被仰付候、此度筑紫宇佐八幡之代官済依被走廻、不入被任置者也、仍如件

   戊子二月三日            助縄 花押

      大泉坊

とある。つまり大泉坊の屋敷は諸役不入であると聞いている。そして大泉坊同行の下人どもを一〇かまど(一〇軒)置いているが、これもよいであろう。ただしこれ以外の者を指置いたときは御用(諸役)を申付るであろう。このたび九州筑紫の宇佐八幡の代官をすませ走廻ったので、屋敷地の諸役不入を認めるものである、という趣旨である。つぎの一通はこれまた大泉坊に宛た同日の日付で

  此度大峯御代官之儀被相頼処、速被走廻候、依之河藤之郷之内寺社妙蔵坊并円覚坊二ヶ所相任置候、併無拠至于共、可被相頼候、向後猶以可被走廻者也、仍如件

   戊子二月三日            助縄 花押

     大泉坊

とある。すなわち、このたび大峯の代官を頼まれたところ早速走廻ってくれた。これにより、河藤郷(現吉川町川藤)のなかの妙蔵坊と円覚坊の二ヵ寺の支配をまかせよう。よんどころない所用があっても用事を頼まれ、なおもって走廻るべきこと、との趣旨である。そしてつぎの一通は、同年六月二十一日の日付で

    諸社江代官任入候事

  一 大峯少護摩之事        一 宇佐八幡代官之事

  一 八幡(やはた)八幡代官之事  一 伊勢へ代官之事

  一 愛宕代官之事         一 出雲代官之事

  一 熊野へ代官之事        一 多賀へ代官之事

  一 熱田へ代官之事

  右偏任入候、来年は慥に一途可及礼候、尚鮎川可申届候、以上

   戊子六月廿一日            助縄 花押

     大泉坊

とある。これはおそらく、大泉坊が助縄の代官として熊野・出雲・伊勢・愛宕・八幡など参向すべしという親任状であろう。そして来年にはたしかにこの礼をするであろうといっている。

 つまり修験は自由に全国を跋渉していたので、諸国の情報にもくわしく精通していた。したがって簗田氏が情報入手の面から大泉坊を利用しようとしていたのかも知れない。

 なお風土紀稿によると、同村幸手不動院配下正清寺の薬師堂にかかっていた釣鐘には「当寺火災ニ羅(かか)リテ碑記湮滅(いんめつ)セシカハ開闢(かいびやく)ノ始ヲ伝ヘス、建治二年密宗ノ僧頼俊再興シソノ宗ヲ奉スルコト数年ニシテ堂塔荒廃セシカハ、密宗ヲ改メ修験ノ行者コノ寺ヲ司トリ、永正六年下総国関宿城主簗田胤正コノ地ヲ管領スル頃、思ヒヲ発シテ堂宇ヲ再造シ旧観ニ復セシヲ、天正十一年回禄ニ罹リテ堂宇又烏有トナリ」との銘文が記されていたという。

 これによると、川藤の正清寺は、建治二年(一二七六)に密宗の僧によって再興されたが、その後寺が荒廃したので密宗を改め修験の行者が当寺を差配するようになった。そして永正六年(一五〇九)下総国関宿城主簗田胤正がこの地域を支配した頃、胤正が心願をかけて当寺を再建した。その後天正十一年(一五八三)に再び火災に遭ったとある。

 この正清寺の修験と、大泉坊との関係はつまびらかでないが、修験がこの地域に浸透してきたのは、比較的古い頃であり、建治二年の後には、密宗の寺が修験寺に改められている。そして永正六年には関宿城主簗田胤正によって荒れていた堂舎が再建されたという。はたして胤正が修験の檀那であったかどうかは不明ながら、当時の支配者は修験を通じて情報の入手に努めていたことは考えられるところである。

 越谷市内では、今のところ中世に創建された修験寺は確認できないが、『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代一三ヵ寺の修験寺があったことを記している。これを列挙すると、幸手不動院を本院とした寺では、長島の大覚院、大沢の真蔵院、神明下の大行院、増林の清覚院、増林の梅光院、同大正院、西方の山王社がある。また江戸青山鳳閣寺を本院としたものに船渡の大泉院、越ヶ谷の東西院がある。そして音羽普門院を本院としたものには越ヶ谷の澄海寺、日本橋仙寿院を本院としたものに瓦曾根の大龍院、伊勢の正義寺を本院としたものに大林の東宝院、築比地の城宝院を本院としたものに、瓦曾根の宝珠院がある。

 これらの寺院はいずれもその由緒を伝えないので、くわしいことは不明であるが、大沢真蔵院に関しては、真蔵院蔦野家に系図が伝わっている。この系図によると、真蔵院蔦野家の先祖は、播磨国印南郡蔦原庄の伊三郎で、伊三郎の代から姓を蔦原と称し大沢に移り住んだとある。その後長徳二年(九九六)に没した蔦原家第五代小右衛門のときに山伏となり、行善坊浄宗法印と称した。それから蔦原家は代々山伏を世襲し、天保十二年まで二七代目を数えたとある。なお真蔵院は永久二年(一一一四)一月、浄賢の代から大沢浅間宮の別当となり、以来浅間宮をともに管掌してきたという。

大沢浅間社

 また、西方の修験山王社は、現在日枝神社と呼ばれているが、『新編武蔵風土記稿』によると、当社はもと大社であり、六寺院を擁してその盛大を誇っていたという。すなわち東光院・利生院・神王院・安楽院・薬王寺・観音寺が山王社の支配にあったが、家康関東入国後、利生院・安楽院・薬王院・観音寺の四寺が大聖寺持となり、神王院は廃寺になるなど山王社は衰微し、わずかに西方村の村社として維持された。