板碑の出現と分布

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板碑は、中世初期、鎌倉時代に、旧荒川・入間川中流地域を中心として発生した。千々和実氏の研究(「板碑源流考」『日本歴史』二八四・二八五)によると、埼玉県大里郡江南村須賀広の日本最古といわれる嘉禄三年(一二二七)の阿弥陀三尊来迎陽刻像板碑から一二五〇年までの二四年間に造立された板碑四五基を調べると、そのうち三八基までが埼玉県内に所在し、その大半が旧荒川・入間川流域の埼玉県北部から中部、秩父山地の東のふもとにかけて分布しているという。

嘉禄3年の板碑(大里郡江南村)

 そしてこの地域は、源頼朝が京都から謙倉に政権を移すのに大きな役割りを担(にな)った中世武士団の居住地域と一致している。すなわち、荒川中流地域には、平治の乱で悪源太義平に従った武者十七騎の中に、長井斎藤別当(大里郡妻沼町)、岡部六弥太(大里郡岡部町)、猪俣小平太(児玉郡美里村)、足立右馬允(北足立郡)らがいる。また法然より専修念仏悪人往生の教説をうけた人びとのなかには熊谷直実(熊谷市)、津戸(つのと)為守(行田市)、甘糟忠綱(児玉郡美里村)、那珂弥次郎(児玉郡美里村)、塩屋信生(児玉郡児玉町)、そのほか比企能員(比企郡)、河越重頼(入間郡)、畠山重忠(大里郡)、吉見範円(鴻巣市)などの土豪たちがいる。そして当時の戦乱の悲劇を経験した武士たちが、末法思想と西方極楽浄土の阿弥陀信仰とに導かれ、秩父山地に豊富に産出する緑泥片岩の材石とあいまって板碑を大量出現させたのではないといわれている。

 ところで、武蔵七党の一つである丹党の丹治氏は、古くから金工・石工の技術を伝統としている氏族で、秀逸な板碑の中に丹治姓の銘文を残すほどであった。この丹治氏と板碑の出現との関係について、千々和実氏の興味深い研究に従って、以下概要を紹介することとする。

 安元三年(一一七七)、平家討滅の密謀が露顕して、法勝寺執行俊寛僧都・丹波少将藤原成経・平判官康頼の三名は鬼界島に流された。数年後、成経・康頼の二名は赦免されたが、この時都から赦免状を持って鬼界島に渡った使者は、『平家物語』によると「丹左衛門尉基康」であった(『源平盛衰記』では「基安」)。

 この基康(基安)、は武蔵七党の一つである丹党の人と思われるが『系図綜覧本』の武蔵七党系図には「基康」「基安」の名はみえない。しかし、およそ同時代頃の世系の中に、基兼、基氏などの名がみられるので、あるいは基康は丹氏の一族であり、荒川・入間川流域の土豪であったろう。

 さて、俊寛は法勝寺の執行であったが、この法勝寺は、最も早く屋根瓦まで五輪型を採用しており、かつ大量の造塔供養が施行されたところであった。

 また、平康頼は、鬼界島に流された時、都恋しさの余り千本塔婆流しを行なったり、帰国後、東山雙林寺に「籠居して、うかりし昔を思ひやり、宝物という物語」を書いてその頃の信仰を述懐している。この中にあらわれる偈は、康頼が常に愛誦していたものと思われるが、これとまったく同じ偈が初発期板碑の中にみえる。

 このようなことから、俊寛・康頼と接触のあった丹基康、すなわち丹一族が、京都方面の板碑の祖型を荒川流域に導いたものと考えられる。そして木造小祖型を模した石造大型の板碑が大量に出現したのは、秩父山地の豊富な青石産出とあいまって、丹氏が伝統とする技術によって出現をみたとしている。

 こうして出現した板碑は、頼朝が守護・地頭職を全国に設置し、それらの職に東国武者が派遣されたことと、さらに仏教の地方伝播とにより、日本全土へ普及していった。今日、板碑の分布は、北は北海道網走地方から、南は九州薩南諸島まで、広く日本全土にかけてみられる。

 ところで、板碑は〝中世にはじまり中世にほろびる〟といわれるが、この板碑が何故に江戸時代になると造立されなかったのか。

 その原因について、

 (1) 近世板碑型供養塔から墓碑への転化

 (2) 近世木製塔婆への変化

 (3) 板碑造立者と工作者の城下町への集住

 (4) 徳川関東入国に伴う板碑の穏匿

などが考えられている。しかしまだ定説はない。