越谷市における板碑の造立総数は、現在一三四基確認される。そのうち年号の判明するものは一一〇基であり、さらに破片を加えるとかなりの数に達する。
これらの板碑の分布をみると、古利根川や元荒川、それに新方・大袋地域の旧河道跡に濃密である。
このことは、当時、河川の自然堤防上に集落が展開され、交通や運輸、さらには思想や信仰などの文化伝播の経路として、河川が重要な役割を果たしていたことを示すものである。
また、荒川上流には材石として使われる緑泥片岩の採石場や板碑工作場があり、板碑を発注したり完成品を購入したりするには、河川がさかんに利用されたと考えられる。
また、板碑の造立には多額の費用が必要であったと考えられるので、板碑の造立数の多少や形の大小を調べると、その地域の当時の集落の規摸や、経済状況を知る手がかりが得られる。
越谷市で板碑が最も多く現存している地域は、大相模地域である。ここには、見田方遺跡という古墳時代の住居址があることなどから、古くから発達した集落が営まれていたと考えられる。
つぎに多い地域は荻島地域で、その大部分は近年、南荻島農協倉庫前の河川敷より一ヵ所から大量に出土したものである。板碑がこのように、まとまって出土する理由について、二つのことが考えられる。一つは、自然に埋没したもの、もう一つは、故意に人為的に埋没されたものであるが、荻島の場合、そのどちらであるか今のところつまびらかでない。ここから出土した板碑は、康正三年(一四五七)から明応八年(一四九九)までの四三年間のもので、その数は、破片を除いて、完形のもの二〇基である。なかに、「妙心禅尼」と刻まれたものが四基あり、これは同一人物のものと思われる。
また越谷市で最も大きな板碑は、越ヶ谷御殿町にある建長元年(一二四九)の弥陀一尊種子板碑であり、下部が欠損しているが、高さ一四五センチ、幅五四センチのものである。越谷市の板碑の幅の平均が約二〇センチ前後であるから、この板碑の造立者は、かなり大きな経済力を有していたと考えられる。日本最古の板碑が嘉禄三年(一二二七)のものであるから、建長元年の板碑は、それより二二年後に造立された初発期板碑といえる。この板碑は、市内最古のもので、市指定の文化財になっている。次に、越谷市の各地域別・時代別の造塔数をみると第11表のごとくである。
越ヶ谷 | 大袋 | 増林 | 大相模 | 新方 | 桜井 | 荻島 | 出羽 | 大沢 | 川柳 | |
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時代 | ||||||||||
鎌倉時代 (1249~1333) |
2 | 3 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
南北朝時代 (1334~1391) |
2 | 4 | 1 | 10 | 3 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 |
室町時代 (1392~1578) |
1 | 2 | 9 | 27 | 7 | 2 | 21 | 3 | 1 | 0 |
不詳 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4 | 3 | 10 | 2 | 1 | 1 |
総基数 | 6 | 9 | 14 | 42 | 15 | 7 | 32 | 6 | 2 | 1 |