越谷の板碑の概観

370~374 / 1301ページ

越谷市の板碑の初現は前述のごとく建長元年であるが、最も新しいものは、増林上組墓地にある天正六年(一五七八)の山王二十一仏板碑である。日本で最も新しい板碑といわれるのは戸田市新曾妙顕寺の慶長三年(一五九八)の題目板碑であるので、天正六年のものはこれより二〇年早いものである。

 したがって越谷での板碑造立期間は、建長元年より天正六年に至る三三〇年間ということになる。この期間における板碑造立の推移を、千々和実編『武蔵国板碑集録』巻二、三によってみると、旧比企郡・大里郡・児玉郡・秩父郡東部の集計では、一三世紀初期より一四世紀半ばまで次第に増加し、一三六〇年代に最大に達するが、以後、一五世紀初期までは急激に減少を示す。さらに一四三〇年代より一七世紀初期まで細々と続くが、やがて消滅する(次頁の図表参照)。

 これに対し、越谷市における板碑の造立は、今まで確認されたものに限っていえば、建長元年(一二四九)の初発より約六〇年の空白期間をおき、一三一〇年代より次第に増加し、一三六〇年代にピークに達する。以後一五世紀初期までは減少するが、再び増加をみせ、一四七〇年に最大に達する。一五〇〇年から約三〇年の空白期間を経て、三たび増加を示すが、一五七〇年には消滅する。

 このように、越谷市における板碑の造立推移は、一三世紀から一六世紀まで各世紀ごとにピークを示すが、それぞれの世紀ごとに板碑の特徴を調べてみると次のようである。

 まず一三世紀は前述の建長元年の板碑一基であるが、一四世紀は、弥陀一尊や、両脇に観音・勢至を刻んだ弥陀三尊の板碑が多く、ほかに南無阿弥陀仏の六字名号板碑や南無妙法蓮華経の七字題目板碑がある。一五世紀には、弥陀種子板碑のほかに十三仏種子板碑が造立されている。一六世紀はほとんどが結衆による庚申待板碑や山王二十一仏板碑である。

 なお、南北朝時代における年号は、越谷市域ではいずれも北朝年号が用いられ、当時足利氏の支配下、あるいはその勢力下にあったことがわかる。南朝年号および私年号のものは越谷では発見されていない。

 つぎに越谷市の板碑を主尊別にしてみると第12表のごとくである。弥陀種子主尊のものが圧倒的に多く、九五基を数え、全体の八割以上を占めている。これは、当時の弥陀西方浄土往生思想による浄土教信仰にもとずくものと考えられる。ついで山王二十一仏のものが八基を数え、以下、十三仏、釈迦、名号、題目の順となっている。

第12表 板碑の主尊別割合
基数 割合(%)
主尊
弥陀 一尊種子 55 95 82.6
三尊種子 38
三尊来迎図 2
釈迦 一尊種子 2 4 3.5
三尊種子 2
六字名号 1 0.9
七字題目 1 0.9
十三仏 6 5.2
山王二十一仏 8 6.9
総基数 115

 また、板碑に刻まれた主尊によって、造立者の宗派をある程度推察することができる。たとえば、弥陀は浄土宗、釈迦は天台宗・禅宗、名号は浄土真宗・時宗、題目は日蓮宗というように一般に考えられている。

 弥陀種子板碑には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と、観無量寿経の偈を付したものがあり、これは明らかに浄土宗のものと思える。しかし、中には「オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ナウ マ カ ボ ダダラ マ ニ ハン ドマ ジンバ ラ ハラ バ リタヤ ウーン ダ」と、光明真言を刻むものもあり、これなどは真言宗系のものとも思われる。

 もっとも阿弥陀仏信仰は、浄土宗に限らず当時の仏教界全体に信仰されたものであり、板碑の主尊が弥陀であるからといって、すぐさま浄土宗というように一概に断定することはできないこともある。

 越谷市の六字名号板碑は、東方中村千枝氏墓地にあるもので、中央に一遍流の書体で、「南無阿弥陀仏」とあり、両側に「文和二年 正月吉日」と刻銘されている。これは浄土真宗・時宗系の称名念仏衆徒によるものである。

六字名号板碑(越谷市大成町)

 七字題目板碑は日蓮宗系であり、越谷市には一基、大道の元荒川土手にある。中央に「南無妙法蓮華経」の首題、両側に南無多宝如来、南無釈迦牟尼仏の二仏を配した三尊形式をとり、下部に「貞治六年丁未 六月廿日 源光」とある。なお、題目板碑の最古は、東京都大田区池上本門寺大坊にある正応三年(一二九〇)のものであり、つぎは、越谷市の隣の松伏町下赤岩蓮福寺にある正応五年のものである。

七字題目板碑(越谷市大道)

 このように、板碑の主尊・偈などによって当時の越谷地域における宗教活動がある程度うかがえる。

 つぎに板碑の造立者名をみると、「禅門」「禅尼」の法名が最も多い。この中で「阿号」のつく法名は時宗系の教徒に多いとされ、大松の長野家の勢至さまの祠(ほこら)には、嘉吉二年(一四四四)の弥陀三尊に「賢阿弥禅尼」、大松清浄院の宝徳二年(一四五〇)の弥陀三尊に「明阿弥禅門」などがある。なお「道」や「門」は男、「妙」「尼」は女の法名につけるものである。

 僧名では大松清浄院の宝徳元年(一四四九)の弥陀三尊に「賢真上人」、見田方関根家の文明六年(一四七四)の弥陀三尊に律師者索」、西方石垣家の文明十三年の弥陀三尊に「祐真阿闍梨」、増林路傍の天文二十四年(一五五五)の弥陀三尊に「第六代郷蓮社信誉正公和尚」などがある。

 「二郎」「三郎」「ひこ六」などの俗名は、十三仏板碑や山王二十一仏板碑、庚申待板碑などの結衆板碑にみられる。