伊奈氏の民政

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当時家康が支配した関東の領知高は二四二万二〇〇〇石といわれるが、このうちの五〇%にあたる一二〇万石余が家康の直轄地にあてられていた。しかもこの直轄地は水田地域を占め、土地生産力のすぐれた領域であった。家康はこの江戸を中心とした周辺の直轄地を、伊奈忠次・彦坂元正・長谷川長綱・大久保長安の各代官頭と、それに属する代官とによって支配させた。

 このうち伊奈忠次は、足立郡小室(現北足立郡伊奈村)、足立郡土屋村(現大宮市土屋)、比企郡上大屋敷村(現比企郡川島村)の三ヵ所に陣屋を設置して民政の拠点とした。これら陣屋の設けられた場所は、荒川・利根川流域の水田地帯をひかえ、周辺には忍・岩槻・川越・松山など後北条氏の旧支城が散在し、後北条氏の旧臣らが古くから土着した地帯であった。つまり伊奈忠次の陣屋配置は、明らかに軍政上と農政上の二つの配慮によって設定されたことを示している。しかも陣屋支配の中心拠点であった小室陣屋は、後北条氏時代に隠然たる勢力を保持してきた無量寺閼伽井(あかい)坊を倉田(現桶川市)の明星院に移転させて設置したものであり、根強い旧勢力を現地から駆逐して、新たに徳川氏の民政の拠点に変えようとしたことが窺われる。天正一九年(一五九一)五月の伊奈熊蔵忠次の手形(「明星院文書」)には、

  今度閼(伽脱)井坊屋敷へ我等移候に付而無相違相渡、倉田明星院へ被移候之間、御公方よりは少も付不申候へ共、為勘忍分

  一屋敷廻西に而縄之上、畠参町出置事

    此外閼井坊屋敷縄入参候迄、明星院に而なわ入参候ほど明星院近辺にて出置事

    但是は畠三町之外也

  一小針宮山并春日立野之事

    但田に発(ひらき)何程候共進候

  一門前共に不入之事

  右之分為我等知行内は永令寄進之間、子共之代迄も不相違、但是は明星院へは付不申閼井坊に出置者也、仍如

   天正十九辛卯年                             伊奈熊蔵

       六月六日                              忠次(花押・黒印)

      無量寺

       閼井坊

とある。つまり伊奈熊蔵忠次が閼伽井坊を接収したので、閼伽井坊は倉田の明星院に転居した。ついては家康からはその代りの土地を与えるという申渡しはなかったが、屋敷廻りのうち西の方の土地を検地のうえ畠三町歩を寄進する。このほか明星院近辺や立野にも検地のうえ土地を与える、というのである。これは伊奈氏が当地を知行している間は永く保証するものであるという伊奈忠次の手形であり、在地の有力者をなるべく刺激させずにその目的を貫徹する方法をとっていたことが知れる。なお閼伽井坊にはその後十一月になって徳川家康によって六〇石の寺領朱印地が与えられた。

 また伊奈忠次は家康の命により、交通の要衝太日川筋(現在の江戸川)にあたる下総国市川と松戸、渡良瀬川筋にあたる房前(ぼうぜん)(現五霞村元栗橋)に関所を設け、通行する人びとや物資を臨検するなど警備に当った(赤山源長寺碑)。この関所の設置も江戸を中心とした防衛体制の一環であった。このように軍事的な政策と、徳川直轄地農民支配の重要な任務の一翼をになった忠次は、多くの人材を登用して在地支配の貫徹と、軍事的な関東防衛の万全を期した。

 もとより、関東の地は後北条氏が永年培(つちか)って民心を帰服させてきた所だけに、徳川氏のあらたな領国経営には後年にみられぬ柔軟な政策がうかがえる。たとえばかつては敵であった後北条氏や甲斐の武田氏等の旧臣を自己の家臣に登用したり、かつて在地支配力の強かった寺社に対して寺社領を安堵したり、在地の有力農民を名主に位置づけて、支配機構の末端に組入れるなど、在地の現況を温存して、むしろこれを利用する政策をとった。旧武田氏の遺臣による八王子千人同心の組織もその一つのあらわれである。

伊奈村小室陣屋跡

 伊奈氏もこの政策にしたがい、在地の有力農民や、治水あるいは新田開発にすぐれた実力者を配下に組入れることにより、在地への支配力を滲透させることに努めたのである。これら伊奈氏の人材登用としては、たとえば、忠次にしたがって関東に移り忠次の配下として代官を勤めた武州足立郡土屋村(現大宮市)の永田市太夫可清ならびにその子八兵衛可次、葛飾郡大川戸村(現松伏町)の杉浦五郎右衛門定政、埼玉郡槐戸(さいかちど)新田(現越谷市出羽地区)の開発に功績のあった神明下村(現越谷市)の会田七左衛門正重、葛飾郡宇喜新田(現東京都江戸川区)を開発した宇田川喜兵衛、上州群馬郡の代官堀を開鑿した滝村(現高崎市)の江原源左衛門らをあげることができる。