会田出羽一族

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このうち家康の家臣に登用された者に、越ヶ谷の会田出羽家の一族がある。会田出羽家については、幕府が寛永年間(一六二四―四三)に編さんした「寛永諸家系図伝」(内閣文庫所蔵)でみると、次のごとくである。

会田

 これによれば、徳川家康にはじめて仕えたのは出羽資久の子庄七郎資勝である。仕官の年月はつまびらかではないが、『徳川実紀』によると、慶長十二年(一六〇七)二月二十九日に、「大御所江城を御発輿ありて駿府に赴かせ給ふ、相州中原にて数日御放鷹し給ふ、この頃御旅館に金の茶釜をはじめ茶器類うせてみえず、よてその夜の番士会田勝七某を掛川へ、落合長作道一を田中へ、岡部藤十郎某を沼津に召しあづけられて糺察せらる」とある。ここにみえる会田勝七某は会田庄七郎資勝のことである。すなわち慶長十二年二月、徳川家康が駿府に帰城の途次、相州の中原御殿に泊って数日の鷹狩を行なったが、この際中原御殿に置かれていた金の茶釜や茶器類が紛失した。このためその日の宿直会田庄七郎資勝が遠州掛川の本多家に、同役二人もそれぞれ大名家にお預けの身になったとあるので、会田資勝が家康に仕えたのは比較的早い時期であったとみられる。

 なお『徳川実紀』慶長十五年二月四日の条に、「四年のさき、中原の御旅館にて金の茶具ぬすみたる賊こたび搦らる。よてその夜宿直の番士落合長作某、岡部藤十郎某、会田庄七郎資勝等皆罪ゆるされて出仕す」とあり、慶長十五年二月、咎をうけた三名の番士はみなその罪を許された。

越ヶ谷天嶽寺会田家墓地