会田出羽の先祖

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この会田出羽の先祖は、かならずしも明確ではなく疑問の残るところもあるが、「会田家系図」によると信州海野(うんの)氏の一族である。海野氏の子孫が信州会田郷に居住したとき海野姓を会田姓に改称し、代々小笠原氏に仕えていた。のち会田将監幸久の代にいたり、甲斐の武田氏と小笠原氏の争いがあり、小笠原氏は敗れて京にのがれた。小笠原氏の家臣も故郷を離れてそれぞれ四散したが、将監幸久は関東に下って北条氏に属したという。永禄二年(一五五九)『小田原衆所領役帳』に記載のある会田中務丞は、会田将監幸久の子で信清といい、会田出羽資清は中務丞の弟筋にあたっている。資清は父将監にともなわれて越ヶ谷に住し、岩槻城主太田三楽斎資正と親交があり、資正から〝資〟の字を授けられたといわれ、以来代々会田氏の諱(いみな)には〝資〟の字が宛てられている。系図にはまた、兄会田中務丞の没後、会田氏代官田嶋豊後守と会田氏後家をめぐるお家騒動が起った際の、北条氏の裁許状が載せられている。葛西飯塚(現葛飾区)に本拠を置いたとみられるこの会田中務丞家の騒動と、越ヶ谷会田氏との関係も今のところこれを明らかにすることはできない。