会田出羽父子

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さて会田出羽資清は、徳川家康関東入国の前年の天正十七年八月に没した。法号を喜教院殿長与利歓居士と称し、越ヶ谷天嶽寺に葬られた。

会田出羽拝領品入箱(大林鈴木家蔵)

 資清の子は資久といい、同じく出羽を称した。天正十八年関東入国後の家康は度々越ヶ谷に来遊し、資久夫妻に謁見を許したという。のち資久は家康のもとめに応じ慶長九年(一六〇四)荒川に面した出羽居屋敷の一部を越ヶ谷御殿の敷地に提供した。以来鷹狩などで御殿に来遊した家康や秀忠からそのつど謁見を許され、御馬験(しるし)鍾馗の御籏、御紋付の団扇、家康直筆の松鶴の絵等が下賜されたという。これらの下賜品は、現在足立区保木間の吉岡氏が保管している由である。

 なお『寛政重修諸家譜』の資久に関する記事中に「下野国宇都宮に御座のとき、仰をうけて間道を導きたてまつり」とあるが、これは慶長五年(一六〇〇)会津上杉討伐における秀忠の宇都宮出陣をさしたものか、あるいは他の事歴をさしたものかつまびらかでない。いずれにせよ、家康等の御用をいろいろ勤めたことにより、慶長十三年五月、家康から資久に褒美として屋敷一町歩が与えられた。

     以上

 急度申入候、仍其方御公方御用能〻走廻候、付而為屋敷分と畠一町歩被下候、長ク所務可致候、弥御用可走廻候、右之通本多佐渡殿も御存知之間如此候、仍如

  慶長拾三年                               伊奈備前

   申五月十九日                               忠次(花押・黒印)

      会田出羽殿

伊奈備前差添書状(越ヶ谷小島家蔵)

 右はその時の伊奈備前守忠次の差添状である。こうして家康の関東経営の激動期に生きた資久は、元和五年(一六一九)の十月に没した。法号を歓喜院殿祐与道光居士といい、同じく越ヶ谷天嶽寺に葬られた。