会田出羽の子孫

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前述のごとく「寛永諸家系図伝」によると、資久の相続人は庄七郎資勝であり、資勝が徳川家康に仕えたとあるが、「会田家系図」ではこの資勝が除かれ、資勝の子七郎右衛門資重が資久の跡を継いでいる。「会田家系図」によると、資重も二代将軍秀忠や三代将軍家光の越ヶ谷御殿来訪の際は拝謁を許され、家光からは家光直筆の三番叟の絵を下賜されたとある。資重の没年は正保元年(一六四四)七月であり、法号を深興院殿澄与道幽居士といい、越ヶ谷天嶽寺に葬られた。

 ついで資重の子には小左衛門資信と又六資忠があり、このうち小左衛門資信は寛永元年(一六二四)徳川家光の小姓役を勤め扶持米三〇〇俵、その後寛永十年に二〇〇俵の加増をうけ、埼玉郡のうちにおいて五〇〇石の采地が与えられた。この資信が旗本会田家の祖とされ、この家からは代官に登用されて諸国の幕領支配に活躍した者も出ている。その知行所は第2表のごとくである。資信は慶安二年(一六四九)六月に没し、江戸牛込の大信寺に葬られた。法号を広大院殿直与浄頓居士という。

第2表 幕末期旗本会田氏知行所(旧高旧領取調帳)
埼王郡岩槻領 石  
閏戸村 会田勝三郎知行 146.5553
貝塚村 46.7061
根金村 101.0681
埼王郡騎西領
内田ヶ谷村 203.8586
合計 525.1881

 一方、又六資忠は民間にあり越ヶ谷会田家を継承したとある。この越ヶ谷会田家は、のち五郎平資勝の代の宝永・正徳年間に、越ヶ谷を退転したが、その子平兵衛資武の代に再び会田家の旧地を買戻し、越ヶ谷に戻っている。

 なお、小池坊第五世尊慶頼心のように、越ヶ谷郷会田氏を出自とした諸氏が多いが、津軽藩士の会田氏もその一人である。現在北海道函館市に居住の会田金吾家系譜によると、「初越ヶ谷に居、阿部侯に仕エ七十石、其ノ后与左衛門家相続伊奈家下代百石、然ル処延宝八年津軽侯に召抱ラレ算者役、金六両四人扶持、此頃検地にクワシイ財津久右衛門、田口十兵衛、会田伊兵衛、比留間に召抱エラレルト云フ、天和二年、越後高田藩没収ノ際幕府命ニヨリ津軽侯検地仰付ラル、其ノ時検地人トシテ参加、続イテ貞享検地に参加、功労大ナルニヨリ百石下置御馬廻に仰付ラル」とあり、幕末期津軽藩にて高嶋流砲術師範を勤め、一五〇石の禄高をうけた津軽会田氏の祖が、越ヶ谷会田氏の一族であったことを明記している。

 以上、かならずしも明確なものではないが、これら会田氏の履歴を見ると、すくなくとも越ヶ谷会田出羽家は、中世来の越ヶ谷の名門であったことが推察できるし、徳川氏による地方支配の貫徹に一役をになった家柄であったことが窺い知れよう。