このほか関東代官頭伊奈氏によって登用され、越谷地域で民政に活躍した代表的人物として、会田七左衛門政重と杉浦五郎右衛門定政が挙げられる。
会田七左衛門政重は、大沢町本陣福井猷貞が文化年間(一八〇四―一七)に著わした越ヶ谷町の地誌「越ヶ谷瓜の蔓」などによると、越ヶ谷の会田出羽資久の養子であったという。現在市内神明町に居住の七左衛門政重の子孫である会田俊家の過去帳には、大祖政重の養父母として道貞禅定門、妙林禅定尼の名と、養祖父として法室妙伝の名が記されてある。養祖父が出羽資清で、養父が出羽資久であるかは、これだけで断じることはできないが、養子であることは確認される。政重は寛永十九年(一六四二)十一月、年六二歳で没しているので、逆算すると天正九年(一五八一)の生れである。その出自はつまびらかでないが、文化年間成立の八代重昌の碑には「其先出於北条十郎氏房、有故改今姓氏」とあり、岩槻城主太田氏房所縁の者であったともみられる。
政重は成長の後、神明下村に分家を創立したといわれ、関東代官頭伊奈氏の下で代官を勤め、出羽地区のうち槐戸(さいかちど)新田の開発に大きな功績を残した。現在の神明町会田俊家に伝わる天和三年(一六八三)成立の「神明縁起」という書によると、「元和年中会田氏政重曾任官吏伊奈氏、安頓乎此村、検視大沼之濱偶竭力勵心、闢草茉広井地分邑種圃、抉河疏溝洫、送往迎来済人馬之橋計桑麻之時、使民窺農隙之暇設漁梁之業、是以数村茅屋栄四境鶏犬聞、上賞其有勲労官領於新墾田号謂七左新田」の記事がある。
これによると、政重は元和年間(一六一五―二三)伊奈氏のもとに仕官し、当時沼沢地帯であった出羽地区のうち槐戸新田を検視してその開発に努めた。政重は力をつくし心を励まして荒地を開き、井を広げ稲を植えて村を整えた。これは強制ではなく、去る者はこれを送り、来る者はこれを迎えたとあり、人馬の通路に橋をかけ、農耕などの便宜をはかることも忘れなかった。また農間漁業の便宜をはかり副業にもつとめさせたので、槐戸新田村は大いに繁栄し、四辺に鶏犬の声がたえなかった。伊奈氏はこの功労を賞し、この墾田を官領に組入れ七左新田と称したとある。
正保年間(一六四四―四七)成立の「武蔵田園簿」には、当時政重の開発したこの出羽地区の新田を槐戸新田と称していたが、のち越巻・大間野・七左衛門の各村に分村された。このうち七左衛門村の村名は会田七左衛門の名をとって名付けられたものである。なお政重はこの七左新田の開発にともない次々と定住していく村民のために、七左衛門村観照院をはじめ、越巻村満蔵院、谷中村妙柳院、七左衛門村武主大明神等の寺社を建立し、近世の村づくりに多大なる功績を残した。
さらに『新編武蔵風土記稿』によると、寛永六年(一六二九)の幕領検地の際、足立郡鴻巣領の東間村が、会田七左衛門・成瀬権左衛門・宮田庄左衛門・海野権兵衛によって検地が行なわれており、同じく篠津村・花野木村の同年の検地も「時の御代官会田七左衛門糺せり」とあるので、当時会田七左衛門は伊奈氏の下で代官の身分にあり、検地奉行も勤めていたことが知れる。
政重晩年の身分は不明であるが、その子政連も墓石の銘に「仕伊奈氏」とあり、また享保元年(一七一六)五月の〝公方薨御鳴物普請停止触〟や、享保四年一月〝の御鷹御用触〟等には、伊奈氏家臣会田七左衛門と富田吉右衛門の名で村々に廻状が出されている(西方村「触書上」)ので会田七左衛門家は寛政四年(一七九二)の伊奈家改易までは、関東郡代伊奈氏に代々つかえていたとみられる。政重は法名を日映観照禅定門と称し、前述のとおり寛永十九年に没したが、伊奈氏の人材登用による新田村づくりに成功した一例といえよう。