杉浦五郎右衛門定政

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杉浦定政は大川戸村杉浦家の「家譜」によると、織田氏の旧臣美濃国羽栗郡竹ヶ鼻城主杉浦五郎右衛門定元の長子である。父定元は徳川方と豊臣方との争いを見越し、長子定政を伊奈忠次に託して徳川方にしたがわせた。伊奈忠次の妻と杉浦定政の妻が、深津弥右衛門方の姉妹であり、相聟の関係にあった縁故からである。関ケ原戦をひかえて豊臣方にあった定元は、次子裕次郎定孝とともに城中に籠って東軍と戦い、慶長五年(一六〇〇)八月に戦死をとげた。

 一方関東にあった定政は、下総国船橋の五日市場に屋敷を拝領し、伊奈忠次のもとにあって三〇〇石の知行を与えられ代官を勤めていた。越ヶ谷宿大沢町の成立に際し、大沢町の深野・内藤両家に〝町人役〟という特殊な身分を認知したのも、杉浦五郎右衛門によると記した記録もみられる(「大沢町古馬筥」)。

 慶長十三年(一六〇八)七月、徳川家康は伊奈備前守忠次を総奉行とし、下総国船橋意富比皇大神宮の再建を成就させた。このときの添奉行は杉浦五郎右衛門と渥見太郎兵衛であり、大神宮の境内に寄進された慶長十三年九月の燈籠二つがい(四基)は、伊奈忠次と杉浦定政の建立になるものであった(「杉浦家家譜」)。またこのときの大神宮の棟札には

(表面)

   願主征夷大将軍源家康          奉行伊奈備前守忠次

  奉祈意富比皇大神宮一宇造営、天下泰平武運長久諸願成就所

   于時慶長十三年戊申七月十八日

                       添奉行杉浦五良右衛門

                       同   渥見太良兵衛

(裏面)

   御遷宮 大禰宜清胤    大夫兵部重之 佐久間図書直道

       小禰宜重種           小仲井主計兼興

           

   神主富中務大輔基重 同息彦十郎基治

             大工小笹源右衛門則重 小工藤代内匠正次

             鍛冶石井藤左衛門定時 飾師白銀介次郎吉久

と記されてあったという(「由緒書上」)。杉浦定政はこの大神宮造営の功により、家康から葵の紋のついた棗(なつめ)(主として薄茶の時に用いられる木製の粉茶容器)と薄茶容器を賜わったが、今でもこの棗と薄茶容器は杉浦家に大切に伝えられている。

現在の船橋大神宮
家康下賜の棗と薄茶容器(杉浦家蔵)

 実はこの大神宮造営の敷地は、杉浦定政の拝領屋敷に重なったため、屋敷を失った定政は、伊奈忠次の取計いですでに慶長五年に設置されていた葛飾郡大川戸村(現松伏町大川戸)の陣屋御殿を、家康直筆の坪割書とともに拝領することになった。

 なおこの陣屋御殿は関ヶ原戦の際、敵の侵攻に備えるために設けられた陣屋御殿であり、家康の命をうけた伊奈忠次にかわって、杉浦定政が大川戸の郷内ならびに秩父の支配地から延一万人の人足を徴用して、短時日で構築したものであるといわれる。

 陣屋御殿を拝領した定政は、こののち慶長十八年二月、支配所秩父郡において病没した。法名を西岸春東大乗院と称し、鴻巣勝願寺にある伊奈忠次廟の傍らに葬られた。また定政は大松村清浄院の中興の開基者となっており、清浄院の墓地には定政の供養墓石をはじめ、杉浦家歴代の墓が祀られている。

大松清浄院杉浦家墓地

 なお定政の嫡子は五郎右衛門定次といい、定政の死後当時はまだ幼年であったため、伊奈忠次の嫡子伊奈忠政に預けられてその成長を待った。しかし忠政は元和四年(一六一八)に病没し、続いて忠政の嫡子熊蔵も翌元和五年に年九歳で病没した。このため跡継ぎの絶えた伊奈忠次家は、領地小室一万石余が収公(幕府に土地を取上げられること)されたので、主人を失った定次は、大川戸村の拝領屋敷に浪人の身として引籠ることになった。その後、享保十五年(一七三〇)杉浦家五代五郎右衛門勝明の代に至って、関東郡代伊奈氏に再度登用され、以来三代にわたり、寛政四年伊奈氏改易の際まで伊奈氏の家臣として活躍した。

 以上のように杉浦家初代の定政は、伊奈忠次にしたがって関東に移り、関東諸村の民政に活躍した伊奈家臣の代表的な人物といえよう。