寺領朱印状

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天正十八年八月江戸城に入った家康は、翌十九年十一月、関東の主な寺社に対し集中的に領地の寄進を行なった。寺社は戦国時代に大名や士豪の帰依を受け、戦略的な拠点となっていた関係上、在地に対しては絶大な勢力をもつことが多く、寺社領の安堵はこのような古い伝統をもつ寺社に対する懐柔策でもあった。ここでこれまで寺社が所有していた治外法権的な領地は一応収公された形となり、改めて検地が行なわれて石高が確認され、寄進石高を記した朱印状がそれぞれの寺社に下付された。

 越谷地域で家康から寺領を寄進され、いわゆる朱印状とよばれる寄進状を下付された寺院は、

 寺領六〇石 崎西郡 大佐美郷大聖寺(西方村真大山大聖寺)

 寺領二五石 崎西郡 平方郷林西寺 (平方村白龍山林西寺)

 〃 一五石  〃  越ヶ谷郷天嶽寺(越ヶ谷町至登山天嶽寺)

 〃 一〇石  〃  大相模郷浄音寺(見田方村解脱山浄音寺)

 〃  五石  〃  越ヶ谷郷照蓮院(瓦曾根村慈氏山照蓮院)

 〃  五石  〃  越ヶ谷郷迎摂院(四町野村越谷山迎摂院)

 〃  三石  〃  野嶋村浄山寺 (野嶋村野嶋山浄山寺)

の七ヵ寺である。

野島浄山寺家康寺領朱印状(浄山寺蔵)

 このほか慶安元年(一六四八)九月に、三代将軍家光によって新たに朱印状の交付をうけた寺院は、寺領五石をうけた大房村熊野山浄光寺、寺領四石をうけた大泊村大龍山安国寺、寺領一二石をうけた大松村栄広山清浄院の三寺がある。これらの寺院は慶安朱印状に「任先規寄附之訖」とあるので、このときにはじめて寺領を寄進されたものではなく、すでに寺領は除地などの形で与えられていたものとみられる。たとえば大松清浄院寛永六年(一六二九)の寺領検地帳(越谷市史(三)一八三頁)には、

  田畠合弍町八反七畝拾八歩

  右之分神谷弥五助殿御縄之時分、弥五助殿備前様御談合被成、御朱印御取可被下由に而御除候由寺被申候、御朱印無御座候間、御年寄衆え御談合可被成候

とある。すなわち、田畠二町八反余は検地の際、伊奈備前守と談合のうえ朱印状を交付する由で除地にしておかれたのだから、朱印状の交付を幕府の年寄中に交渉されたらよい、という趣旨である。このように実質的には寺領を安堵されており、手続き上朱印状の交付が遅れていたものとみられる。

 これら寺領の寄進状は、歴代将軍の代替りごとに、原則として江戸の寺社奉行所から再交付をうけたが、六代家宣、七代家継、一五代慶喜の各将軍は、在任期間が短かったり、幕末の混乱期であったりしたためか、朱印状の交付がみられない。したがって、家康の朱印状はじめ全部揃っていても一二通、あるいは慶安以後の交付の場合は一〇通である。朱印状が交付された寺院は御朱印寺とよばれて寺の格式ともなっており、葵の紋をつけることを許され、また将軍の位牌を祀って供養することになっていたので、とくに朱印状の取扱いはていねいであった。だがこの朱印状も、徳川幕府の滅亡とともに慶応四年(一八六八)閏四月、維新政府が朱印地等の引上げにともなう措置として、朱印状をすべて回収することになり、大政官布達第三一八号をもって朱印状提出方の通達を出した。このため多くの寺社は新政府のもとめに応じたとみられ、朱印状の写かあるいはその控しか保存していない寺社も多い。のち新政府は回収した朱印状の一部を廃棄処分にしたようであるが、その処分された朱印状を明治時代に古物商から購入して保存していた故西角井忠正氏の例などもある(現在埼玉県立文書館保管)。

 越谷地域の朱印寺では、新政府に朱印状を提出して朱印状の残されていない一部の寺院もあるが、平方林西寺、野嶋浄山寺、四町野迎摂院、大房浄光寺、大泊安国寺の五ヵ寺には今なお朱印状が残されている。