家康の御殿設置政策

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徳川家康が関東に封ぜられた時、関八州のうち安房に里見氏、上野に佐野氏、常陸に佐竹氏、下野に那須氏・宇都宮氏等が割拠して、戦国の緊張がまだ持続されている状況であった。家康はこの状況に対処して新領国の防衛体制を固めるとともに、これら周辺諸大名の動向を探知しかつ関東の地形を熟知するため、しきりに各地を鷹狩の名目でみずから巡察した。このみずからの巡察は、以上のほかに在地土豪層の掌握と家臣団の統制を目的にしており、何よりも領内民心の把握を重視したものでもあった。

 家康が、はじめこの巡察の途次利用した休泊所には、岩槻・川越・忍など、家臣を配置した城廓を用いたが、このほか巡回の先ざきで在地の寺社や有力者の邸宅が臨時に使用された。しかし家康の地方巡察が度(たび)重なるにしたがい、特定の休息所や宿泊所が所々に設置され、これを〝御殿〟〝御茶屋〟などと呼ぶようになった。

 家康は江戸入府直後、まず品川宿と六郷八幡町などに御殿を設けたといわれるが、史料的に明確ではない。確実なもので文禄二年(一五九三)の鴻巣宿、同四年の大磯宿などに設置したのが早い例である。『新編武蔵風土記稿』『新編相模風土記稿』に記載されている元御殿を含めた御殿の総数は二三ヵ所、その他御茶屋が一〇ヵ所、これに類するもの一五ヵ所となっている。これら御殿・御茶屋は寛永年間(一六二四~四四)以降、つぎつぎに廃止されて、正保改定図(一六四四~四八)によれば、御殿一〇ヵ所、御茶屋及びこれに類するもの一五ヵ所と、急激な減少を見せている。その理由は、御殿の設置が、当初軍事的機能ならびに行政監察的機能をもっていたのが、幕府体制の基礎の確立とともに、その意味を失っていったことにある。そしてついには御殿・御茶屋は単に将軍やその家族の行楽ならびに遊興のための別荘に変り、その数もきわめて限られたものになっていった。

 ともあれ、当初の御殿は街道筋の要衝に位置し、徳川氏の軍事・行政施策の拠点として機能していたことは確かであるが、御殿・御茶屋の規模やその構造は、一定の規格によったものでなく、それぞれ大小があった。なかでも規模・構造とも広大なものとして注目される御殿に、奥州路の江戸の玄関口、綾瀬川に面した小菅御殿があげられる。『新編武蔵風土記稿』によると、当所は小菅御囲地と称してその構内は一〇万余坪、各種の建物が立ち並んで、その景観は城廓に比肩される壮大な御殿であったといわれる。

 また中原道筋多摩河畔の小杉御殿は、敷地面積こそ三〇〇〇余坪であったが、表御門・裏御門に下馬札が立てられ、構内には御馬屋敷・御蔵・御賄屋敷・御殿番屋敷などが立ち並んでいたという。さらに千葉・佐倉街道の要衝を占めた船橋御殿が六〇〇〇余坪、下総東金街道筋の東金御殿が九〇〇〇余坪、中仙道の蕨御殿が六〇〇〇余坪と、いずれも交通上の要衝を占めて広大な敷地を持っていたことは共通している。このほか街道筋の主な御殿を列挙すると、東海道筋では高輪御殿・品川御殿・六郷八幡塚御殿、中仙道筋では浦和御殿・鴻巣御殿、奥州道筋では千住御殿・越ヶ谷御殿、甲州道筋では府中御殿、青梅道筋では高円寺御殿などが数えられる。

 これらの御殿すべてが、敵の侵攻あるいは農民の反乱などに備え、江戸防衛の拠点となるべき軍事的な機能をもっていたとするのは、それぞれの御殿成立年代が明確でない限り速断はできない。しかしこのなかの幾つかは軍事的な機能をもって設定されたことは充分考えられるところである。たとえば軍事的な目的をもった典型的な御殿として、古利根川の畔(ほとり)に位置する葛飾郡大川戸村の陣屋御殿があげられる。