大川戸陣屋御殿

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慶長五年(一六〇〇)七月、家康の命に従わない会津の上杉氏を討伐のため、家康は自ら陣頭に立って江戸を出発し、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻通りのいわゆる鎌倉街道を奥州路に抜けて野州小山に至った。このとき関西にあった豊臣方の頭目石田三成挙兵の報をうけ、家康は急拠雨中を江戸に引返すことになった。途中栗橋の舟橋が大水のため流失しており、順路を変更して渡良瀬川通り乙女岸から舟で古利根川に入り、これを下って葛西に向った。その際大川戸に立寄って休息したが、この地の形状よろしき故をもって、陣屋御殿の構築を関東代官頭伊奈忠次に命じ、みずから筆をとって御殿の間数等をしたためた坪割書を手渡した(「杉浦家由緒書」)。

 この家康自筆の坪割書が杉浦家に伝存しており、内容を示すとつぎのごとくである。

元禄八年杉浦家屋敷書上図

    覚

  弍拾五間  つほの内               五間   とほり道

  拾間    家                  十五   といしきい

  弍拾間   つほねとあやいた

  拾弍間   家

 家康より命をうけた伊奈忠次は、早速部下の代官杉浦五郎右衛門定政をして坪割書にもとづき御殿を構築させた。定政は近郷ならびに支配所秩父領から人足を徴用し、一万人を駆使して短時日にこれを構築したという。

 この御殿の規模は、元禄八年(一六九五)の幕領総検地の際、大川戸村杉浦氏が検地役人に提出した屋敷絵図の控によると、かならずしも当初の規模を示しているとはいえぬが、構内総面積六町一反七畝一五歩、屋敷の周囲には幅二〇間と一三間の堀をめぐらし、その内側を藪敷の築山によってとりかこんだ堅固なとりでのごとき構えである。これは明らかに石田方との合戦をひかえ、常陸の佐竹、会津の上杉等豊臣方による後背からの侵攻に備えた、江戸防衛の一拠点を目途にしたものといえよう。こうした家康に服従しない有力大名を背にした後顧の憂いも、関ヶ原の一戦による徳川方の勝利で全く解消し、事実上天下を掌握することができた家康は、続いて同八年には征夷大将軍として名実ともに天下を統率する地位に立った。したがって従来軍事的な意図をもって設置された御殿の利用価値はここに消失したが、大川戸の陣屋御殿もその後利用されないまま、伊奈忠次の家臣杉浦五郎右衛門定政にこれを下賜している。

徳川家康坪割書(大川戸杉浦家蔵)
大川戸の杉浦家

 このように関ヶ原戦を契機に、御殿の軍事的色彩は薄らいだが、これにかわって御殿の性格は、徳川幕府の基礎を固めるための家臣の統制や農民支配の貫徹のための行政監察的色彩の濃いものになっていった。すなわち『徳川実紀』には、「大御所はかく日をかさね、遠近の郷村に狩したまひながら、民政の得失、郡吏の善悪、農民の患苦を巡察し給へば、遠近の百姓訴状を捧げ小吏の残暴をうたふる者多し」という記事が見える。ここでは大御所(家康)自身が遠近の郷村を巡察し、その行く先ざきで地方の民政や裁判に介入するという中世的な領主の特色がみられる。したがって家康の休泊所たる御殿や御茶屋の設置も慶長年間(一五九六―一六一五)が最も多く、確実なものだけで二二ヵ所を数えることができる。これに比して、すでに述べた通り幕府体制が固まり、近世的吏僚機構が確立されていく寛永年間(一六二四―四四)以降の御殿や御茶屋の設置は激減するのみでなく、逐次廃止されていった。なかには江戸時代中期の宝永年間(一七〇四―一一)に設置された御浜御殿等の例もあるが、これらは将軍またはその家族の行楽遊興を目的とした別邸であった。