秀忠と越ヶ谷御殿

427~429 / 1301ページ

二代将軍秀忠は、家康の没後引続き鷹狩にことよせて江戸近郊の各地を巡遊した。越ヶ谷には元和三年十一月に来遊している。『徳川実紀』には「越ヶ谷・東金辺へならせられ放鷹の御遊あり」とある。また翌元和四年十月二十九日には「越谷辺御鷹狩にならせ給ひ、これより連日御泊狩ありて士気・東金辺までならせらる、井上主計頭正就・水野監物忠元・永井信濃守尚政・阿部備中守正次・青山大蔵少輔幸成等御供す、儒役林永喜信澄も同じ、十一月六日御狩場へ金地院崇伝使もて蜜柑一箱献じ御気しきをうかがふ、十二日東金辺御狩はてゝ御帰城あり」とあり、約半月近く側近の重役を召し連れて越ヶ谷に逗留している。

 ついで元和六年十一月にも「忍の辺へ御鷹狩にあらせられ、越ヶ谷に至らせ給ふ、井上正就・阿部正次・青山幸成・林信澄・今小路延寿院正純等お供す、十二月十一日帰城」とあり、このときは一月余の滞在であった。これら長期にわたる鷹狩は、すでに幕府体制の基礎がほぼ固まった時点でもあり、将軍秀忠ならびに幕閣首脳者の休養を兼ねた巡遊であったと見られる。また元和七年十二月三日には、「東金の御狩場より越谷をへて還御なる」という記事がみられる。

寛永年間の江戸城(『東京市史稿皇城編』)

 元和九年、将軍職を家光に譲って大御所におさまった秀忠は、寛永二年(一六二五)十二月六日にも越ヶ谷に来遊した。「大御所東金・越谷に御泊狩あり、仙台宰相政宗が狩場程近し、よて土井大炊頭利勝より政宗に奉書を贈り、心置なく狩すべしと命ず。又御か(ママ)へさ医官今大路式越部大輔親清、越谷の御殿にて茶を奉る、所持の茶入を御賞美有て越谷といふ銘を下さる」とあり、越ヶ谷御殿で茶の湯を催したことが知れる。さらに寛永六年十一月、翌寛永七年十一月にも秀忠は忍から越ヶ谷辺にかけて鷹狩を行なっているが、その後、『徳川実紀』には秀忠ならびに家光の越ヶ谷来遊の記事はない。しかし「会田出羽家系図」等によると、三代将軍家光が越ヶ谷御殿に来遊し、越ヶ谷会田氏当主七郎右衛門資重に目通りを許し、家光自筆の三番叟の絵や御手道具を添えて猩々毛蓑ならびに陣羽織が下賜されたとある。

 また『徳川実紀』寛永十六年六月二十日の項に、「越谷の御殿所々破損に付、山田喜左衛門正清、平野清左衛門長利に修理御奉行この如く仰付らる」の記事が見られるので、あるいは越ヶ谷御殿は、寛永以降も大御所秀忠や将軍家光の旅宿に使用されていたことも考えられる。

 その後、『徳川実紀』によると、慶安二年(一六四九)四月世子徳川家綱(当時九歳)日光社参には、その途次の休泊に越ヶ谷御殿が利用されている。すなわち「慶安二年四月十二日、千寿(住)をたたせ給ひ、越谷にて昼餉奉る、此館構造せし大番根岸長兵衛直利、中川市右衛門忠明に時服、大工に銀を下さる」とある。家綱の日光社参に備え、御殿の修復がなされたとみられ、家綱が越ヶ谷御殿で昼休をした際、御殿修造の関係者が褒美としてそれぞれ金品を下賜されている。ついで日光社参を終えた家綱がその帰路越ヶ谷にさしかかったが、このとき「供奉の行装を御覧あるべしとて、越ヶ谷の橋に御輿をとどめられ、申後(午後四時過)同所の御旅館につかせ給ふ」とある。

越ヶ谷御殿跡付近