越ヶ谷御殿の江戸城移転

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明暦三年(一六五七)一月の、いわゆる振袖火事と称される江戸の大火に江戸城も全焼した。このとき幕府は江戸城二の丸に越ヶ谷御殿を移して仮殿とすることにきめ、時の老中阿部忠秋が越ヶ谷御殿移転の奉行に任ぜられた。すなわち『東京市史稿皇城編』によると、「二月七日、腰谷御殿御引取二ノ御丸エ立申に付、阿部備前守手伝被仰付之」とある。次いで同年三月、江戸城内に運ばれた越ヶ谷御殿は、二の丸仮殿として築営されたが、この奉行には勘定奉行酒井忠吉等が任ぜられている。「三月十三日、二丸仮殿造営の奉行を、舟越伊予守永景、牧野織部正成常、八木但馬守守直に仰付られ、酒井紀伊守忠吉に総督すべしと仰下さる」とある。

 この二の丸造営工事は同年八月に竣功し、万治二年(一六五九)の本丸造営までは将軍の居所として用いられた。二の丸殿舎はその後万治三年、瓦葺の屋根にふきかえられ、寛文四年(一六六四)には、二の丸の築山普請がほどこされた。さらに天和元年(一六八一)七月、神田橋行殿が二の丸に移され大修復がほどこされている。ここにおいて、明暦三年から天和元年までの二四年間、江戸城二の丸の殿舎として用いられてきた越ヶ谷御殿のおもかげは失われるにいたったのである。一方、明暦三年に江戸城に移された越ヶ谷御殿の跡地は、元禄八年(一六九五)の検地の際、四畝二六歩の御林跡が御殿地の由緒により除地として残された以外は、すべて畑地に開発されて年貢地に組入れられた。だが除地に指定された御林は〝御守殿蹟〟あるいは〝権現林〟とも称され、しかも〝御殿〟の地名や〝御殿下道〟〝御殿地表通り〟〝御門見通〟〝御殿通〟などという御殿に因んだ道路名などが、永く人びとによって伝承され今日に及んでいる。現在当所は旧蹟として越谷市の文化財に指定されている。