越ヶ谷郷

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すでに中世編で述べたように、越ヶ谷の名は、寛永年間撰といわれる東京大学史料編纂所本「千葉大系図」に、古く武蔵七党のうち野与党渋江氏の分流として〝古志賀谷〟氏の名がみえる。すなわち古志賀谷次郎為基、その子四郎為重、その子太郎秋近、同じく二郎信秋、同じく四郎行勝の代々である。また越ヶ谷の市神社には、嘉吉二年(一四四二)の騎西郡越ヶ谷村と記された棟札が残されていたといわれるが、これは明確ではない。

 原文書から越ヶ谷の地名が確認できるのは、葛西の本田氏に宛てた永禄四年(一五六一)の北条氏裁許状と、天正十九年(一五九一)十一月の徳川家康による寺領寄進状からである。瓦曾根照蓮院の寺領寄進状には「崎西郡腰谷瓦曾禰之内五石之事」とあり、四町野迎摂院の同じく家康の寄進状には「崎西郡越ヶ谷郷内五石之事」とある。さらに越ヶ谷天岳寺の寄進状には「崎西郡越ヶ谷郷内拾五石之事」とある。これらによると当時越ヶ谷は、四町野・瓦曾根を含め越ヶ谷郷と称した郷名であったことが知れる。なお文化期の成立にかかる越ヶ谷の地誌「越ヶ谷瓜の蔓」によると、越ヶ谷郷は、登戸・瓦曾根・花田・四町野・神明下・荻島・袋山の広範な地域を含め、元和五年(一六一九)の検地では総石高三八〇〇石の大郷であったとある。さらに『新編武蔵風土記稿』によると、岩槻領鈎上村の慶長年間(一五九六―一六一四)の検地帳には、「武州騎西郡越ヶ谷之内鈎上」と記されていたとあるので、鈎上村地域も越ヶ谷郷に含まれていたようである。近世初期の検地帳が現存していないので、「越ヶ谷瓜の蔓」の記述を確かめる方法がないが、正保年間成立の「武蔵田園簿」では、かつて越ヶ谷郷に含まれていたこれらの村々はすでに独立した村として記載され、その中心の越ヶ谷は高一一三五石六斗二升二合の村となっている。