越ヶ谷村

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越ヶ谷は、近世における奥州道中に設けられた宿場として、新たに造成された集落とみられる。近世に入り、広い範囲の越ヶ谷郷が、末端の行政単位として各村に分解されたので郷名は消滅したが、越ヶ谷郷の中心として越ヶ谷の郷名をそのまま村名に移しかえたものであろう。現在でも知れるように、越ヶ谷町のその家並を見ると、いずれの家も街道に面し、軒を接して直角に区画されている。これはあきらかに近世宿駅の形態に沿った人工的な屋敷割りであり、それぞれ適宜に住居を構えた自然集落ではないことが知れる。

 それでは越ヶ谷の元村はどこであったのか問題であるが、四町野村に二、三の興味ある事実がある。その一つは四町野の地名は本来耕地名であり、近世になってから村名に定めたといわれる。さらに四町野村迎摂院の寺号が越ヶ谷山神宮寺を称していること、また越ヶ谷の市神社は、寛永年間に四町野の神明社を移したものといわれ、もとは四町野の鎮守神であったという(大沢福井家文書「御用書留」)。さらに江戸時代を通じ、越ヶ谷の久伊豆社・浅間社・愛宕社がいずれも四町野村迎摂院が別当としてこれを管理し、かつこれらの境内敷地も四町野村の領分にされていたことなどが挙げられる。なおこの三社の境内敷地は社殿とともに、明治二十二年の町村合併の際、入組地所の交換で越ヶ谷町の所有となった。したがって、越ヶ谷の元村は四町野であったとみてよい。

 しかしこのことは、越ヶ谷村が全く新しい開発地域であったという意味ではない。もともと越ヶ谷には中世以来の土豪会田氏が、郷社の久伊豆社や、後北条氏の館に利用されたといわれる天嶽寺に隣接した荒川河畔の袋町から御殿町にかけて陣屋を構えており、事実上越ヶ谷郷の中心であったとみられる。そして越ヶ谷村の造成に際しては、はじめ当時の奥州路である観音横町から越ヶ谷の往還に交叉した古道を境にして南北に二区分され、これを本町・新町と名づけたが、袋町から越ヶ谷にかけて会田氏持切りの所有地があり、当所をとくに中町と名付けて区割りをしなおしたといわれる(「越ケ谷の瓜の蔓」)。

越ヶ谷本町市神社

 また「越ヶ谷瓜の蔓」の越ヶ谷町家並図のなかの記載によると、越ヶ谷村成立期の地付百姓として、宇田川治右衛門・小野寺弥兵衛・鈴木平右衛門・下田権右衛門・遠藤十左衛門・片嶋善兵衛・浜野藤二郎・小杉藤左衛門・田中吉右衛門・森田清兵衛・小嶋市左衛門・篠善兵衛・新井又兵衛・金沢清五郎・高崎弥惣・井橋市兵衛・大野新左衛門・大戸作右衛門・三枝三郎兵衛・野暮庄兵衛の二〇家を挙げ、さらに会田七家として会田出羽・会田八右衛門・会田四郎兵衛・会田六郎兵衛・会田平兵衛・会田清蔵・会田七左衛門の名を挙げている。このうち地付百姓の小杉藤左衛門と浜野藤二郎とは越ヶ谷御殿の御殿番を勤めた家であり、新井又兵衛は中町の名主・問屋会田出羽家の代役を勤めていた家である。会田七家のうちの、会田八右衛門は、本名三嶋式部大輔と称した戦国の落武者であり、越ヶ谷に落居したが、会田出羽から会田の姓を与えられて一族に組込まれた者であるという。代々本町の名主・問屋、それに越ヶ谷宿本陣の三役を兼帯した家柄である。このほか会田四郎兵衛は新町の名主・問屋、会田出羽が中町の名主・問屋、会田清蔵は市場の割元役を勤め、越ヶ谷町の重要な役職は会田一族が占めていた観がある。なお会田出羽の養子といわれる会田七左衛門は神明下村に分地し、伊奈氏の家臣として出羽地区の開発に大きな功績を残している。したがって越ヶ谷には古くからの自然集落があったとみられるが、奥州道の宿場として新たに屋敷割りが行なわれ、越ヶ谷の地付百姓を中心に近在の住民が集まって形成された新興の宿場町であるといえる。そして当所を行政的には越ヶ谷村と呼び、また宿場としては越ヶ谷町と称したのである。