新方庄

434~435 / 1301ページ

粕壁の古隅田川筋を区切り、荒川(元荒川)と利根川(古利根川)の間に位置する粕壁町(現春日部市粕壁)をはじめ四一ヵ町村の地域を、かつて〝新方庄(にいがたのしょう)〟と呼んだ。古くは一ノ割村(現春日部市一ノ割)香取社の享徳三年(一四五四)の鰐口銘に「新方壮市披目」とあり、また文明六年(一四七四)の長宮村(現岩槻市長宮)香取社の鰐口銘に「新方庄長宮」とあるので(『新編武蔵風土記稿』)、古い庄名に違いない。大沢町浅間社の由緒書(大沢荒井家文書)などによると、この地域はもと下総国葛飾郡西河辺庄に属し、新潟庄あるいは新方庄と称されていたという。

 一説によると、太田道灌が岩槻に城を構築してこの周辺を支配下におさめた頃、利根川と荒川の間の地域を下総国から武蔵国に付属させたので新しき方、つまり新方の庄名が付けられたという。だがこの新方庄の範囲や、新方庄の所属した郡名もかならずしも明確なものではない。天正十九年(一五九一)の徳川家康による平方村林西寺の寺領寄進状によると、「武蔵国崎西郡平方郷之内二拾五石之事」とあって新方庄の名が見えない。しかし大松村清浄院寛永六年(一六二九)の寺領検地帳には「武州騎西郡東新方之内」とあり、須賀村(現春日部市須賀)天正二十年(一五九二)と慶長三年(一五九八)の検地帳には「新方庄西川須賀村」との記載(『新編武蔵風土記稿』)があったという。また大沢の寛永六年の検地帳にも、「武蔵国崎西郡西新方領大沢村」と記され(「大沢町古馬筥」)ていたといわれ、いずれも新方の地名が付せられている。しかも新方庄は西と東に区分されていたと見られ、西新方、東新方に使い分けられている。

 このように、新方庄の名称は鰐口銘や朱印状、あるいは検地帳によって確認できる所もあるが、新方庄が所属した郡名となるとまだ不明確な点が多い。たとえば、新方庄内の大沢村や大松村は寛永期には崎西郡に属しているが、同じ新方庄内の大房村浄光寺や大泊村安国寺の慶安元年(一六四八)の寺領朱印状には、「武蔵国葛飾郡」と記されている。したがって新方庄が当時崎西郡か葛飾郡であったかは速断はできない。しかし、正保の幕府編さん改定図によると、新方庄村々がいずれも埼玉郡となっているので、崎西郡かあるいは葛飾郡かに所属していた新方庄が、正保の改定までには埼玉郡所属と定められたのはたしかである。