大沢村

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これら新方庄の村々のなかでも、近世の宿場となった大沢は、越ヶ谷と同じく近世に造成された町場で、奥州道開通後の成立になるものである。この町場を形成した人びとの多くは、猿嶋(さしま)街道(現国道一六号線)にそった高畠や、葛西用水筋(逆川)の鷺後周辺に居住していた農民である。ことに高畠の住民は、ほとんどが大沢に移住したという。このため高畠の屋敷跡はその後畑地に再開発されて新田耕地と呼ばれた。また大沢の鎮守香取社も、寛永・明暦年間(一六二四―五八)に、大沢村の元村の一つである鷺後の香取社を当所に移したものといわれる(「大沢町古馬筥」)。

 だが、この大沢の地名も古くからのものという説もある。大沢町浅間社の「浅間大神由来」によると、長元三年(一〇三〇)当所の住民深野源三郎が、富士山浅間宮参拝の際、富士の大沢の滝から影向(ようごう)石を持ち帰って荒川の堤上に浅間社を勧請した。この神体が大沢の影向石であったので、この地を大沢の里と唱えたという。また一説によると、大沢の地は谷地や川原が多く、池や沼で占められていたので大沢と呼んだともいう。

大沢浅間神社

 ともかく大沢も古い集落で、中世以来の地付百姓としては、江沢氏や深野氏・内藤氏・蔦野氏などが挙げられる。このうち江沢氏はその先祖が代々岩槻太田氏に仕えていた武士で、太田氏滅亡とともに大沢に土着して農民になったといわれる。江戸時代はこの江沢氏の屋敷を〝内出〟と呼び、代々大沢町の世襲名主を勤めた家柄である。

 〝内出〟とは〝打出〟とも書き、検地の際の縄打に、最初の縄を入れた屋敷をこう称した。千住宿では石出掃部亮の屋敷、草加宿では大川図書の屋敷、越ヶ谷町では会田出羽の屋敷、大沢町では江沢太郎兵衛の屋敷、粕壁宿では関根図書の屋敷、幸手宿が知久文左衛門の屋敷を〝内出〟と称した。かれらはそれぞれ町の中でも開発領主的な有力な家であった点で共通している。

 また蔦野氏は大沢の修験真蔵院の別当であり、天保年間(一八三〇―四四)の当主が、長徳二年(九九六)に死去した蔦野氏先祖から二七代目を数えていたという(「大沢町古馬筥」)。

 深野・内藤の両家も古くからの地付百姓であるが、このうち深野氏は前述の大沢浅間社勧請の当主深野源三郎の流れである。おそらく宿場造成地域の土地所有者であったとみられ、新町造成に協力した理由からか、両氏に対し〝町人〟という特殊な身分を、伊奈備前守忠次の家臣杉浦五郎右衛門定政によって認知されたという。この〝町人〟は、名主の次席に位し、公文書や証文には名主の次に加印をし、一〇間余の表大間口と伝馬役免除の特権が与えられていた。しかしこの町人役も、延宝二年(一六七四)九月、大沢町名主と惣百姓との訴訟出入がおこり、奉行所裁許によって〝町人〟身分が廃止されるとともに、町人役に付随した特権も奪われた。名主・年寄という制度上の役職が置かれている以上、町人は役無用であるという根拠によるものであった。一説によると、町人深野所左衛門は名主同様の家格を誇り、同村稲葉屋四郎右衛門の下女が木履をはいたまま所左衛門に目通りしたのを咎めたことから争論となり、ついに訴訟にまで発展したといわれる(「大沢町古馬筥」「大沢猫の爪」)。

 江戸時代も寛文・延宝期(一六六一―八〇)となると、すでに幕府の支配体制が整備され、幕府はたとえ家康や代官などから与えられた特権でも、制度にはずれた特権は容赦なく整理しようとはかった。この町人役の廃止もその一つのあらわれとみられよう。いずれにせよ大沢は宿場造成のために、改めて形成された町で、その家並みも街道にそって整然と区割されているのは越ヶ谷と全く同じである。