大相模郷

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『新編武蔵風土稿』によると、東方・見田方・西方の各村を〝大相模郷〟と称し、大相模の郷が解体されて分村されたとき、郷の西にあたるのでこれを西方、東に位置したので東方と名付けたという。しかし天正十九年(一五九一)に寺領一〇石を家康から下賜された見田方村の解脱山保鏡院浄音寺は、その以前西方山蓮華院浄香寺と称していた(『新編武蔵風土記稿』)とあるので、西方・東方の地名は古くからのものであったとみられる。また大相模の地名は、西方村大聖寺の縁起書によると、大聖寺の本尊不動明王は、良弁僧正の作であるといわれ、相模国大山から移されたものであるので、これに因んで大相模と称したという。

明治期の大相模不動

 古く「野与党系図」に、野与党箕勾の分流として当地に住居した小相模二郎能高の名が見られ、現在の大成町中村千枝氏がその後裔であるといわれる。また大聖寺に宛てた元亀三年(一五七二)の北条氏繁判物には、〝大模不動院〟とあり、天正十九年の徳川家康寺領寄進状には「武蔵国騎西郡大佐美郷之内六拾石事」とあるので、当時この地は大相模郷を称していたのはたしかである。なお葛飾郡二郷半領飯嶋新田の開発者中村平右衛門は、大相模の飯嶋村(現見田方の一部)の出身といわれる(『新編武蔵風土記稿』)ので、当時飯嶋村は大相模郷の中の一地名であったようである。