幕府直轄領

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越谷地域の村々は、徳川氏関東入国当初、いずれも〝御料〟(天領)と称された徳川氏の直轄地であった。しかし寛永年代以降(一六二四―)岩槻藩領・忍藩領・古河藩領・六浦藩領・土屋領・旗本領等に組込まれる村々がみられる。これらは領主の交代その他でしばしば変動があり、各村々の支配領域が固定されるのは宝暦七年(一七五七)のことであった。このうち江戸時代を通じて幕末まで幕府の直轄領であったのは、平方・大里・上間久里・下間久里・川崎・大吉・向畑・大杉・弥十郎・船渡・袋山・大林・大房・増林・増森・中島・小林・花田・登戸・瓦曾根の各村、および大沢・越ヶ谷町の計二町二〇ヵ村である。

 これら幕府直轄地村々の支配は幕府代官に任せられていた。代官の主な任務は、年貢の取立て、法令の伝達、治水や用水の管理、治安の維持等にあった。なかでも年貢の取立ては最も重要な職務であり、初期の代官は年貢の請負人的性格をもっていたといわれるほどである。幕府の職制が整備され、地方の支配機構も、老中―勘定奉行―郡代・代官―名主という指揮系統が確立されると、代官の性格も幕府吏僚制にもとずく地方農政官として位置づけられた。

 越谷地域の直轄地の村々は、家康の関東入国から寛保二年(一七四二)にいたる一五〇年余の間、関東郡代(当初は代官頭と称した)伊奈氏の統一支配下にあった。しかし寛保三年以降は、直轄領各村々とも、伊奈以外の代官にも支配をうけるようになったが、在任期間の長い代官で十年、短いものでは半年あるいは一、二年で更迭されており、なかには二人の代官により立会預り所となることも珍しくなかった。寛保二年以降の代官の更迭を、八条領西方村と越ヶ谷七左衛門村および大沢町の例でみると第7表の通りである。

 第7表 歴代支配代官
西方村 七左衛門村 大沢町
寛保2年 伊奈半左衛門 寛保2年 伊奈半左衛門 伊奈半左衛門
寛保3年 柴村藤右衛門 寛保3年 柴村藤右術門 柴村藤右衛門
延享3年 船橋安右衛門 延享2年 船橋安右衛門 船橋安右衛門
宝暦3年 小野左太夫 宝暦2年 伊奈半左衛門 小野左太夫
宝暦6年 辻源五郎 宝暦3年 小野左太夫 辻源五郎
宝暦9年 岩佐直右衛門 〃 5年 伊奈半左衛門 伊奈半左倒門
宝暦13年 野田弥市右衛門 〃 6年 辻源五郎 小出大助
明和4年 大岡十三郎 明和2年 伊奈半左衛門 野口辰之助
明和5年 遠藤兵右衛門 寛政3年 小出大助 岸本弥三郎
野口辰之助 浅岡彦四郎
明和7年 宮村孫右衛門 享和2年 岸本弥三郎 野田源五郎
明和8年 蓑笠之助 文化元年 浅岡彦四郎 山田常右衛門
安永4年 宮村孫右衛郎 文化2年 野田源五郎 伊奈友之助
前沢藤十門 文化10年 山田茂左衛門 大貫次右衛門
安永5年 布施弥一郎 文化10年 伊奈友之助 伊奈半左衛門
天明8年 野口辰之助 〃 12年 羽倉外記 平岡文次郎
寛政2年 蓑笠之助 〃 13年 山田常右衛門 青山九八郎
寛政6年 小野田三郎右衛門 文政元年 大原四郎右衛門 竹垣三右衛門
寛政7年 山上熊太郎 〃 7年 伊奈友之助 斎藤嘉兵衛
寛政9年 堀谷文右衛門 〃 10年 伊奈半左衛門 今川要作
寛政10年 野口辰之助 〃 13年 伊奈友之助 佐々井半十郎
文化2年 野田源五郎 天保2年 伊奈半左衛門 桑山圭助
文化3年 山田茂左衛門 〃 13年 平岡文次郎
文化8年 吉岡次郎右衛門 〃 〃 青山九八郎
文政4年 大原四郎右衛門 天保15年 平岡文次郎
川崎平右衛門 弘化2年 築山茂左衛門
文政5年 柑本兵五郎 青山九八郎
文政8年 山田茂左衛門 〃 〃 北条雄之助
文政12年 伊奈半左衛門
天保13年 青山九八郎 弘化4年 大熊善太郎
弘化3年 北条雄之助 嘉永2年 青山録平
嘉永元年 大熊善太郎 〃 4年 斎藤嘉兵衛
安政3年 斎藤嘉兵衛 安政3年

 〔注〕大沢町の歴代支配代官は交代年代が不明なので順序のみを記した