関東郡代伊奈氏の代々

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関東郡代伊奈氏は幕初以来、もっとも長期にわたって当地域の幕領村々を支配した代官である。そこで以下、伊奈氏代々の事歴を素描しておこう。

 伊奈備前守忠次(ただつぐ) かれは三河の出身ではじめ熊蔵といい、徳川家康に仕え、豊臣秀吉の小田原征伐に際しては小荷駄奉行として勲功をたてた。天正十八年、足立郡小室と鴻巣において一万石(一万三千石ともいわれる)の領地を与えられ、大久保長安・長谷川長綱とともに徳川氏直轄領の支配にあたった。忠次が当時支配していた領域は一〇〇万石に及んだといわれ、備前堀の開さくや備前堤の築堤、あるいは新田の開発など治水や農政に顕著な功績を残した。慶長五年備前守に任ぜられ、家康の信任すこぶる厚かったが、慶長十五年六月十三日、五七歳で没した。法号を勝林院殿秀誉源長大居士と称し、鴻巣勝願寺に葬られた。

 筑後守忠政(ただまさ) 忠次の嫡子で、忠次の遺領小室一万石を継いで筑後守に任ぜられた。大番頭役として大坂の役に勲功があったが、元和四年(一六一八)三月、三四歳で病没した。法号を安養院殿万休一声大居士といい、父と同じ鴻巣勝願寺に葬られた。

鴻巣勝願寺

 熊蔵忠勝(ただかつ) 忠政の子。忠政の没後家督を継いだが、翌元和五年八月に病没した。年僅かに九歳であった。このため跡つぎの絶えた忠次家の遺領一万石は幕府に収公された。法号を廓然院殿見相生蓮信男といい、伊奈氏改易の責任上父とは別に小室願成寺に葬られた。

小室願成寺伊奈忠勝墓石

 幕府はこの後、忠次家が絶えることをおしみ、忠勝の弟忠隆に小室のうち新地千石を与え、伊奈忠次家の名跡を存続させた。

 半十郎忠治(ただはる) 伊奈忠治は伊奈忠次の次子、すなわち忠政の弟で、文禄元年(一五九二)の生れ。半十郎を称し、八〇〇石の知行を与えられ勘定方に勤仕していた。父の没後その職掌を継ぎ、徴税をはじめ治水や新田開発に多大の功績を残した。慶長十六年以降にみられる当地域の年貢割付状や、慶長十七年の葛飾郡三輪野江村、ならびに茂田井新田等に発せられた掟書はいずれも半十郎忠治が出したものである。元和四年ごろ(詳ならず)足立郡赤山領七〇〇〇石余の知行を与えられ、赤山に陣屋を設けて関東郡代職の基を開いた。赤山陣屋が忠治の本拠であったが、別に江戸常盤橋御門内に邸を賜り、関東直轄領のうち約三〇万石の地を支配した。この間元和七年と寛永十八年(一六四一)の利根川・権現堂川の改修、寛永六年の荒川改修などをはじめ、筑波郡谷原領三万石余の新田開発を手がけるなど、治水に農政に大きな功績を残した。承応二年(一六五三)六月、六二歳で没し、鴻巣勝願寺に葬られた。法号を長光院殿東誉栄源周大居士という。

 半左衛門忠克(ただかつ) 忠治の長子で、半左衛門を称した。正保二年(一六四五)幕府に召されて代官の職にあったが、承応二年父の没後遺領を継ぎ関東郡代職についた。この際遺領七〇〇〇石余のうち弟忠詣に一五〇〇石、同じく弟忠臣に一六四〇石を分知し、赤山領のうち三九六〇石を知行した。忠克も玉川用水の開鑿(かいさく)をはじめ、利根川通り赤堀川の開通、さらに幸手用水の開発に大きな功績を残した。明暦三年(一六五七)、江戸の大火事で常盤橋御門内の伊奈氏屋敷が焼失するに及び、同年三月改めて馬喰町柳原に屋敷を賜った。後この馬喰町の伊奈屋敷が関東郡代御用屋敷となり、文化三年(一八〇六)まで郡代職務の役所として存続した。忠克は寛文五年(一六六五)八月に没し、赤山源長寺に葬られた。法号を月光院殿法誉常栄了心大居士という。

 半十郎忠常(ただつね) 忠克の子で、半十郎を称し、忠克の没後遺領を継いで関東郡代となった。延宝二年(一六七四)関東幕領惣検地に際しては惣奉行として検地を実施した。延宝八年一月、三三歳で没した。法号を法性院殿空誉淑均徹真大居士といい、赤山源長寺に葬られた。

 半十郎忠篤(ただあつ) 忠常の子、同じく半十郎を称す。忠常の没後遺領を継ぎ関東郡代となる。元禄十年(一六九七)十月、二九歳で没し赤山源長寺に葬られる。法号を法玄院殿本誉守正覚心大居士という。

 半左衛門忠順(ただのぶ) 忠常の弟で、忠篤の没後遺領を継いで関東郡代となる。忠順は永代橋の架橋をはじめ、本所・深川・築地の堤防を修築した。また宝永元年(一七〇四)の関東水害の復興や、宝永四年の富士山噴火による被害地の復旧に尽力した。正徳二年(一七一二)二月没し赤山源長寺に葬られた。法号を嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士という。

 半左衛門忠逵(ただみち) 実は別家伊奈甚太郎定永の子で忠順の養子となり、その遺領を継いで関東郡代となる。かれは葛西用水の開発や、足立郡見沼代用水の開鑿にも力をつくし、御鷹野御用や日光社参に勤仕して将軍の信任が厚かった。しかも支配地村々に仁政を布(し)き、農民から父母の如く慕われたという。宝暦六年(一七五六)十一月に没し深川玄信寺に葬られた。法号を治興院殿民誉擁衛心休大居士という。

 半左衛門忠辰(ただとき) はじめ半十郎を称す。忠順の嫡男で、忠達の没後遺領を継ぎ関東郡代となる。父の没した時は幼年であったので忠達の養子になっていた。関東郡代を継いだものの病身であったので、宝暦四年(一七五四)九月に隠退し、養子忠宥に遺領を譲った。明和四年(一七六七)十月に没し赤山源長寺に葬られる。法号を寛柔院殿教誉令行利民大居士という。

 半左衛門忠宥(ただをき) 忠辰の養子、実は忠達の嫡男である。宝暦四年九月、養父の跡を継ぎ半左衛門を称して関東郡代となる。明和二年(一七六五)十二月、勘定吟味役上座になり備前守に任ぜられる。明和六年(一七六九)十二月、病のため隠退し、明和九年八月、四五歳で没した。法号を忠宥院殿三誉源孝恕心大居士といい、赤山源長寺に葬られた。

 半左衛門忠敬(ただひろ) 明和六年十二月、養父忠宥の後を継いで半左衛門を称し、関東郡代となる。忠敬は実は松平甲斐守吉里の六男である。安永七年(一七七八)三月、四二歳で没し赤山源長寺に葬られた。法号を蒼雲院殿潤誉応山霊響大居士という。

 右近将監忠尊(ただたか) 実は板倉周防守勝澄の一一男半であり、伊奈忠敬の聟養子となった。安永七年六月、養父の遺領を継ぎ、半十郎のち半左衛門を称して関東郡代となる。天明四年(一七八四)勘定吟味役上座となり、天明七年の関東・東北の大飢饉には窮民の救助に多大の功績を残した。天明六年摂津守に任ぜられ、寛政二年(一七九〇)には右近将監に任ぜられる。寛政四年三月、御家不取締りの罪により知行地を没収され蟄居(ちっきょ)を命ぜられる。寛政六年八月、御預り先の南部内蔵頭屋敷で没す。年三一歳。実家板倉家の菩提所駒込吉祥寺に葬られる。

 半左衛門忠盈(ただみち) 寛政四年、伊奈氏改易後、幕府は伊奈氏の末家伊奈小三郎忠盈に新地一〇〇〇石を与えて伊奈氏の名跡を継がせた。これにより忠盈は半左衛門を称し、のち代官に転じた。その子孫は忠信―忠行―忠重と続いたが、いずれも半左衛門を称した。

 このように伊奈氏は関東代官頭伊奈忠次から一二代、二〇〇年にわたって関東をはじめ諸国の治水や農政に功績を残してきたが、忠尊の代にいたり世襲の関東郡代職は断絶した。伊奈氏は知行地三九六〇石の一旗本にすぎなかったが、関東郡代としての支配地高三〇万石、三八〇名余(寛政期)の家臣をかかえ、徳川家臣団の中でも大名に匹敵する名門中の名門といわれた家柄であった。なお元禄期江戸周辺の代官陣屋が廃止されて、代官は江戸に定府するようになったが、赤山陣屋は寛政四年の伊奈家改易まで、関東郡代役所の出張所として大きな機能を果していた。

赤山陣屋跡