忍領

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忍藩は、忍城(現行田市)を居城とした藩で、天正十八年八月に、松平忠吉が城主に封ぜられてから、酒井・松平(長沢)・阿部・松平(奥平)と、維新までに五度の領主交代があった。このうち越谷地域の村々が忍藩領に組入れられたのは、寛永十六年に忍に封ぜられた阿部忠秋の代である。『寛政重修諸家譜』によると阿部忠秋は寛文三年(一六六三)二月、埼玉郡のうちにおいて二万石の加増をうけている。このとき八条領のうち伊原村の半高を含め、柿ノ木・千疋・別府・四条・南百・麦塚の各村が忍藩領に編入されたのである。その後元禄十一年(一六九八)、全高幕領に復した伊原村と入れ代りに、高一〇八九石余の東方村が忍藩領に組入れられた。これにより当地域の忍藩飛地領は、高五〇〇〇石近くの大領となり、通称「柿ノ木領八ヵ村」と呼ばれた。当所には忍藩の出張陣屋はとくに設けられず、柿ノ木領八ヵ村の割役名主(名主の元締)の家が役務を勤める役宅となっていた。この割役名主は、見田方村の宇田氏が代々世襲で任ぜられていたが、一時は麦塚村の中村氏が割役を勤めたこともあった。

見田方の宇田家長屋門

 忍藩阿部家は、その後文政六年(一八二三)に領地替えとなり、代って松平下総守忠堯が忍城に封ぜられたが、柿ノ木領八ヵ村はそのまま忍藩の領地で、幕末まで変りはなかった(第8表参照)。

第8表 忍藩の歴代藩主
期年 藩主 所領高
万石
天正18年8月 松平家忠 1.0
文禄元年2月 松平忠吉 10.0
慶長5年 城番
寛永3年3月 酒井忠吉 5.0
寛永3年11月 城番
寛永12年 松平信綱 2.6
寛永16年1月 阿部忠秋 5.0
寛文3年2月 8.0
文政6年2月 松平忠堯 10.0
明治2年6月 版籍奉還
 忍藩柿ノ木領村高(天保御帳による)
柿ノ木村 高1,627 (寛文3年より)
干疋村 〃 369 ( 〃 )
別府村 〃 44 ( 〃 )
南百村 〃 228 ( 〃 )
四条村 〃 369 ( 〃 )
見田方村 〃 693 ( 〃 )
麦塚村 〃 507 ( 〃 )
東方村 〃1,089 (元禄11年より)
合計4,826