寛文二年(一六六二)、それまで幕領であった荻島地区と出羽地区のうちの村々が、土屋但馬守数直の領分に組入れられた。『寛政重修諸家譜』によると、土屋但馬守は寛文二年に一万石の領地を拝領したが、このうち五〇〇〇石は埼玉郡越ヶ谷領に采地を与えられたとある(砂原村松沢家文書では七〇〇〇石)。土屋領の確認できるのは、荻島地区のうち神明下村・砂原村・後谷村と、出羽地区の七左衛門村・越巻村・大間野村のいわゆる槐戸新田であり、その他の村はつまびらかでない。土屋領はその後の天和二年(一六八二)数直の子相模守政直の時、駿州田中城に転封となり、土屋領の村々のうち改めて堀田領に組入れられたところもあった。
土屋領村々(寛文2年から天和2年まで)
神明下村・砂原村・後谷村・七左衛門村・越巻村・大間野村・荻島村・その他不詳