延宝六年(一六七八)十二月、西方村のうち幕府直轄地の分が、当時上野国安中に本拠を置いた若年寄の堀田正俊の領分に組入れられた。『寛政重修諸家譜』には「延宝六年十二月二十九日、武蔵国埼玉・上野国吾妻両郡のうちにて五千石を加賜せらる」とあるので、西方村の堀田領分組入れはこのときのことである。正俊はその後老中に進み、天和元年(一六八一)二月、下総国古河城を賜わったので、堀田領分は古河領と呼ばれた。この堀田氏は正俊の子正仲の代の貞享二年(一六八五)六月、出羽国山形に転封となり、その跡をうけて老中松平日向守信之が大和郡山から古河城に封ぜられ九万石を領した。西方村は城主が変わっても古河藩領に変りはなかった。松平氏はその後信之の子忠之が乱心のため、元禄六年(一六九三)十一月、城地を召し上げられ、備中の庭瀬に移された。
その跡をうけて川越城主松平伊豆守信輝が元禄七年一月に古河城へ転封となったが、西方村は同じく古河藩松平氏の所領にあった。その後元禄十一年、幕府による元禄の地方直しの際、西方村は古河藩領から幕領に復した。
このほか蒲生光明院の記録によると蒲生村のうち半高が古河藩領であったとあるが史料的につまびらかでない。いずれにせよ蒲生村は元禄十一年には全高が幕領になっている。