寛文十年(一六七〇)五月、八条領のうち後谷・柳之宮・上馬場・小作田・松之木・伊草の各村、それに川崎村と伊原村の半高が土井能登守利房の領分になった。『寛政重修諸家譜』によると、土井利房は源頼光流の土井氏の別家である。下野国足利郡・常陸国筑波郡・下総国豊田郡・同国岡田郡の四郡のうちで二万石を領し、若年寄を勤めていたが、寛文十年に五〇〇〇石の加増をうけた。前掲書によると「十年五月二十六日、武蔵国埼玉、下野国足利、下総国豊田三郡のうちにて五千石の地をくわへらる」とあるので、前記村々の土井領組入れはこのときのことである。
その後土井氏は天和二年(一六八二)三月、越前国大野城に移され、土井氏の旧領は幕領に復し、この地は貞享元年(一六八四)に伊奈半十郎等により再検地が実施されている。