所領一万石以下の幕府の直参を旗本と称した。当地域における旗本領の早い例では、東方村の当時の村高八九四石余のうち六七石余と、川柳地区上谷村(後東方村に所属)の村高一三二石余の地が、正保三年(一六四六)、鷹匠頭小野久内吉次の知行所にされたことが挙げられる。小野久内を『寛政重修諸家譜』によってみると、「正保三年十二月四日、百石の地を加へられ、武蔵国多摩・新座・埼玉三郡のうちにおいて都て四百石を知行す」とある。小野氏の所領はその後元禄十一年、小野次興の代に下総国香取郡に知行替えとなり、小野氏の一部知行所であった東方村は、全高忍藩領に組入れられることになった。
このほか寛文十年(一六七〇)十二月、西方村のうち高一七三石余が旗本万年佐左衛門貞頼の知行地に分給されている。万年貞頼を『寛政重修諸家譜』によってみると、「寛文五年十二月二十九日二百石の加恩あり、さきに賜う廩米を収められ、武蔵国埼玉郡の内にをいて采地八百石を賜ふ、七年十二月二十六日廩米二百俵を加賜せられ、十年五月十八日新番の頭にすゝみ、十二月二十七日廩米を采地にあらため、同国同郡の内において都て千石を知行す」とあり、寛文十年、さきに加増された蔵米二〇〇俵が采地にあらためられたときに、西方村の一部が万年領となったものである。この西方村の万年領はその後幕末まで変化はない。
また、幕府は元禄八年に幕領の総検地を実施し、その結果にもとづいて元禄十年から十一年にかけて大規模な〝地方直(じかたなお)し〟を行なった。すなわち、幕府は元禄十年七月二十六日、蔵米五〇〇俵以上の旗本に対し、以後蔵米の支給を廃止するかわりに、改めてかれらに知行地を宛行う旨を令した。これがいわゆる元禄の〝地方直し令〟である。この地方直し(蔵米取から知行取へ)に伴ない、従来からあった旗本知行地の大幅な割替も実施され、実際に地方直しが完了したのは、発令から一年後の元禄十一年七月三日であった。
越谷地域では、この元禄十~十一年に旗本領に分給となった村がいくつかみられるが、このほか元禄十三年にも旗本の知行地になった村がある。
たとえば荻島地区の小曾川村は、元禄十~十一年に武蔵孫之丞と高林源右衛門に分給され、残りの地が同十三年に芝山小左衛門に与えられたので、つごう旗本三給所の村になった。同じく荻島村は元禄十~十一年に天野彦兵衛・矢頭権左衛門・大河内金兵衛に分給、残りの地は幕領とされたので、幕領と三人の旗本領を合わせた四給所の村となった。同じく野島村は元禄十~十一年に、旗本蜂屋半之丞と前田五左衛門に分給され、以後二給所の村であった。
さらに、出羽地区の神明下村と七左衛門村は、元禄十三年に平岡主殿・曾我七兵衛・菅谷平八郎・長山弥三郎・中条鉄太郎の五旗本に分給となり、残りの地がいずれも幕領とされたので、両村とも幕領・旗本領六給所の村であった。これら旗本領は幕末まで変化はなかったが、元禄期に分給の際の事情を『寛政重修諸家譜』によってみると、次の通りである。
まず武蔵孫之丞秀一は「十年七月二十六日、廩米をあらため武蔵国埼玉郡のうちにをいて采地二百石を賜ふ」とあり、天野彦兵衛正重は「十年七月二十六日采地を同国埼玉・足立両郡のうちにうつさる」とある。同じく蜂屋半之丞可能は「十年七月二十六日、廩米をあらため武蔵国埼玉郡の内において采地をたまひ、このとき同国河越の采地をも埼玉郡のうちにうつされ、すべて七百二十石を知行す」とある。さらに前田五左衛門定時は「十年七月二十六日廩米及び現米を采地にあらためられ、これまでの采地をうつされ武蔵国埼玉郡のうちにをいて、すべて七百二十石余を知行す」とある。いずれも元禄十年七月二十六日の同じ日付で埼玉郡のなかに采地を給されたことになっているが、これは〝地方直し令〟発布の日に付合させたためであり、実際は翌元禄十一年(七月三日以前)に給されたと考えてよい。ただし大河内金兵衛信相は「元禄十一年六月二十九日、武蔵国の采地を足立郡のうちにあらためられ、八月また埼玉郡のうちにうつさる」とあるように、元禄十一年八月に分給された旗本もいる。
また、元禄十三年に分給のあった旗本のうち、長山弥三郎は「十三年正月十一日、武蔵国埼玉郡のうちにて二百石を加へられ、すべて千三百五十石を知行す」とあり、菅谷平八郎政憲は「十三年正月十一日、また武蔵国埼玉郡のうちにをいて二百石を加賜され、すべて千三百石を知行す」とある。また曾我七兵衛祐忠は「十三年正月十一日、武蔵国埼玉郡のうちにおいて二百石の新恩ありて、すべて八百石を知行す」とあり、平岡主殿頼恒は「十三年正月十一日、同国埼玉郡のうちにて二百石を加恩ありて、すべて二千石を知行す」とある。つまり分給になった日付はいずれも同じ日付であったことが知れる。
一方この元禄の地方直しで幕領に復した村もあった。当地域では、元禄十一年から全高幕領に編入となったのが伊原村と蒲生村、それに万年領を除いた西方村である。
以上みてきたように、村々の支配関係は、幕府領や藩領あるいは旗本領と複雑に入組んでおり、そのうえ村々のうちには寺社奉行支配のいわゆる御朱印地といわれた寺社領も含まれていたので、幕府による一元的な地方統制はいちじるしく困難な状態にあった。