幕府の検地政策

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江戸時代の社会は、農業生産がその経済的な基盤であったから、領主の財政は農民の納める年貢によってささえられていた。したがって、年貢を十分に徴収するためには、土地の所有権をはっきり領主のものとし、農民には土地の耕作権をみとめて年貢納入の責任を負わせなければならない。このためには、領主と農民の間に立つ中世来の土豪層を排除し、兵農分離を行なって領内の土地とそれを保有する耕作農民を細大漏らさず掌握する必要があった。

 この目的を直接果したのが豊臣秀吉の検地(これを太閤検地という)と、この政策をうけついだ江戸幕府ならびに諸藩の検地であった。これら近世の検地が江戸幕府の土地制度を確立し、末端支配の行政単位としての近世の村を成立させたのである。すなわち検地政策は、土地や農民を個々に支配していた在地土豪層からその支配を切離し、土豪層による農民収奪を否定して、近世の領主が直接土地と農民を掌握するためのものであった。秀吉による太閤検地を出発点とした近世初頭の検地は、このような画期的な意味をもつものであり、大化改新における班田法の実施や、明治の地租改正にも比肩されるものである。

 検地とは土地丈量のことである。すなわち一筆ごとの田畑・屋敷が測量されてそれぞれの面積が算定される。大閤検地では六尺三寸四方を一歩(坪)とし、三〇歩を一畝、一〇畝を一反、一〇反を一町とする田積が採用された。面積が算定されると、つぎに地味その他を考えて上・中・下・下々などの位付をし、それをもとに石盛がなされる。この石盛は田畑一反あたりの収穫高を示すものであり、たとえば上田の石盛一〇といえば一反あたりの玄米収穫量が一石ということである。等級は石盛二つづつの差をつけ、上田の石盛が一〇のときは中田の石盛は八つ、下田が六つ、下々田が四つとなる。畑方は米の収穫量に見積って同じく石盛が付されたが、田方の石盛より低いのが普通である。この一村の耕地・屋敷の石盛を集計したものが高何石という村高になり、年貢・課役など農民負担の基礎となるものであった。

 検地ではこの石盛の付された耕地・屋敷の一筆ごとの保有者、つまり貢租などを負担する個々の農民がきめられる。この結果をまとめたものが検地帳であり、水帳・縄打帳・竿帳とも呼ばれる。この検地帳は、領主にとっては年貢や課役を徴すための基礎となるものであり、農民にとっては一筆ごとの名請者が、その土地の保有者として法的に確認されたもので、近世ではもっとも重要な土地台帳であった。

 武蔵国で実施された近世初期の検地は、大閤検地とよばれる豊臣氏の天正・文禄の検地、徳川氏による慶長検地がある。その後も幕府や藩によって異なるが、元和・寛永・寛文と、しばしば検地が実施され、とくに大規模なものとしては、幕領における元禄の武蔵総検地があげられる。当地域の幕領では例外を除き、この元禄の検地帳が江戸時代を通じ、基本的な土地台帳として用いられた。

 なお、幕府の慶安二年(一六四九)の検地条令では、それまで六尺三寸四方を一歩としたのを、六尺一分四方を一歩と改められ、以後の検地はすべてこの基準によった。これは一歩の面積が狭められたことであり、それだけ村の反別がふえるので年貢の増徴につながるものであった。