寛永四年の検地

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当地域には、近世初期の検地帳は発見されていないが、寛永四年(一六二七)の別府村検地帳写によってその内容をみてみよう。検地は幕府役人村松忠兵衛・新井平左衛門・鈴木杢右衛門・清田作左衛門によって実施されている。まず検地帳の表紙には、「武州埼玉郡八条領別府村御検地帳写」と記され、寛永四年九月九日の日付がある。検地の実施月日である。案内者は次郎左衛門であり、別府村の有力農民と思われる。帳面の記載例をみると、

  「拾七間半弐拾間 下畠[宮まへ(挿入)]壱反壱畝弍拾歩 替合六郎兵衛方ヘ出ス 源右衛門分 弥七郎」

  「拾六間半五間 下畠 弍畝弐拾弍歩 同所面市郎兵衛分替合此替物 市郎兵衛分 次郎左衛門」

などと、一筆ごとの面積、等級、名請者、それに注記が付されている。ただし延宝九年の写なので、すべて寛永四年当時の原型を示しているとは限らない。たとえば注記の部分は寛永四年以降に加筆したものであろう。これを集計すると別府村の反別は、下田が二町一反五畝二八歩、上畑一町三反五畝歩、中畑一町九反四畝二四歩、下畑四町四反六畝二一歩の合計九町九反二三歩、このほか屋敷が一反二畝歩である。そしてこの耕地の名請者は、慈眼寺ほか四名である。したがってこの別府村はきわめて特殊な小村といえよう。検地帳の一部に欠損があり、集計反別と多少異なるが、おのおのの持高は第10表のごとくである。このうち屋敷を持つものが、次郎左衛門と長左衛門の二名である。新蔵と弥七郎が屋敷を持たないのは、他村に屋敷を所持していたためか、理由は判然としない。しかも慈眼寺を除いた四名の名請人の肩書には、いずれも一筆ごとに十左衛門分、源右衛門分、庄九郎分、喜右衛門分、慈眼寺分などの分付記載がある。これらの分付の意味は不明で今後の研究にまたねばならない。またこの検地帳には上・中・下の耕地等級づけがあるが、石盛の表示がないので村高も不明である。正保の『武蔵田園簿』によると、別府村は四三石四斗四升九合の村高であり、その後検地が行なわれていないので、この村高は幕末まで大きな変化はない。同じく寛永四年に検地があった西方村も、正保の村高一五三六石余は幕末までほとんど変化していない。

検地の図(徳川幕府県治要略)
 第10表 寛永4年別府村農民所持反別
氏名 下田 上畑 中畑 下畑 屋敷 合計
反畝歩 反畝歩 反畝歩 町反畝歩 町反畝歩
次郎左衛門 6.8.16 6.8.10 5.9.24 1.6.9.29 8 3.7.4.19
新蔵 5.3.11 1.3.00 4.7.12 1.0.4.9 2.1.8.2
弥七郎 3.8.13 3.0.00 1.1.2.15 1.8.0.28
長左衛門 1.6.24 5.1.00 4.1.16 3.5.13 4 1.4.4.23
慈眼寺 2.9.18 1.8.15 2.9.4 7.7.7