寛永六年の検地

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『新編武蔵風土記稿』によると、当地域の小曾川村・荻島村・野島村・後谷村・砂原村・大沢町などでは、寛永六年に検地が実施されたとあるので、おそらく当年代に広く検地が行なわれたものであろう。このうち寛永六年の検地帳が現存しているのは、寺領検地という特殊なものであるが、大松村清浄院領検地帳(一冊)だけである。

 この表紙には「武州騎西郡東新方之内六ケ村清浄院寺領御検地帳」と記され、寛永六年九月二十日の日付がある。すなわち六ヵ村にまたがる清浄院領の検地帳である。しかしこのときの検地帳では、清浄院領が組こまれている村は、船渡村・川崎村・大杉村・大松村・向畑村の五ヵ村であるので、当時はすでに〝六ヶ村〟は名だけのものであったであろう。

寛永6年大松清浄院寺領検地帳

 この五ヵ村の寺領の集計は、田畑合せて二町八反七畝一八歩である。五ヵ村に散在する寺領の名請者は、船渡村と向畑村の寺領すべてと、大杉村の寺領の大部分が清浄院の持地である。また大杉村の上畑四畝一六歩と、同じく上畑四畝二四歩は清浄院分と肩書があり、それぞれ民部と清右衛門の名が記されている。大松村は同じく清浄院分として二郎左衛門が名請している。この分付記載の意味もつまびらかではないが、それぞれ清浄院領の実際の耕作権者の名が記されたものであろう。またこの検地帳の奥書に、「右の分神谷弥五助殿御縄の時分、弥五助殿備前様と談合なされ、御朱印御取下さるべき由にて御除候」とあるので、この以前に神谷弥五助がすでに検地を行なっており、伊奈備前守と相談のうえ、寺領朱印状の下付を願う約束で、当寺領を除地(無年貢地)にしていたことが知れる。なお清浄院が寺領朱印状を交付されたのは、慶安元年(一六四八)三代将軍家光のときからである。