元禄期農民の階層構成

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つぎに現存する各村の元禄検地帳により、農民の石高所持と反別所持を各階層に分けて示したのが、第12表および第13表である。ただし越ヶ谷町は、検地帳全五冊のうち一冊欠けており、四冊分の集計であるので、正しい数字を示したものではないが、その傾向を知るため参考までに掲げた。これによると、各村を通じおよそ石高では高五石以上二〇石未満、反別では五反歩以上四町歩未満の農民が村に占める割合が大きく、村を構成する当時の標準的な階層であったといえよう。このうち大吉村と小林村は石高で五石未満、反別で五反歩未満の零細な層が大きな比重を示している。ことに越ヶ谷町では欠けた一冊分の集計がないので、明瞭なことはいえないが、およそ高五石未満、反別五反歩以下の層が大きい。これは農間伝馬関係の稼業を営なんでいる宿場町の特殊性であるかも知れない。

 第12表 石高よりみた階層構成(元禄8年)
村名 110~100石以上 100~90石以上 90~80石以上 80~70石以上 70~60石以上 60~50石以上 50~40石以上 40~30石以上 30~20石以上 20~10石以上 10~5石以上 5~1石以上 1~0.5石以上 0.5石
袋山村 1 4 14 25 3 3 50
七左衛門村 1 1 12 12 12 12 23 22 7 3 0 69
大里村 4 4 7 2 6 0 1 24
西新井村 1 1 1 6 13 14 22 5 1 2 66
下間久里村 10 12 7 1 0 31
大泊村 4 7 3 0 3 25
大房村 1 5 10 2 1 2 1 22
小林村 1 1 4 22 12 16 7 0 63
大吉村 1 1 1 2 5 6 29 5 2 52
上間久里村 1 1 2 9 2 5 1 0 21
越ヶ谷町 1 2 1 9 24 31 41 10 20 138
 第13表 反別よりみた階層構成(元禄8年)
村名 10町以上 9~8町以上 8~7町以上 7~6町以上 6~5町以上 5~4町以上 4~3町以上 3~2町以上 2~1町以上 1~0.5町以上 0.5町未満
袋山村 1 2 12 12 11 12 50
(1) (2) (10) (11) (10) (7) (40)
七左衛門村 1(1) 2 1 2 2 6 14 24 10 7 69
(16町) (2) (1) (2) (2) (6) (13) (23) (7) (2) (59)
大里村 2 3 4 7 3 5 24
(2) (3) (4) (7) (0) (3) (19)
西新井村 1 1 1 6 8 17 22 10 66
(1) (1) (1) (6) (7) (16) (18) (3) (53)
下間久里村 1 0 1 15 7 7 31
(1) (0) (1) (15) (4) (1) (22)
大泊村 1 1 1 4 2 4 8 3 25
(1) (1) (1) (3) (2) (2) (4) (0) (14)
大房村 1 3 10 4 1 3 22
(1) (3) (10) (3) (0) (0) (17)
小林村 3 4 10 14 11 21 63
(1) (4) (10) (14) (10) (8) (49)
大吉村 1(1) 2 1 2 4 11 31 52
(2) (1) (1) (3) (1) (3) (12)
上間久里村 1 2 3 8 1 6 21
越ヶ谷町 1 2 1 5 13 25 32 60 138
(1) (2) (1) (5) (12) (25) (31) (39) (115)

(カッコ内屋敷所有者)

 このほか大吉・小林両村の検地帳にあらわれた零細層は、名請した所持地の耕作のほか、おそらく大高持の小作を請負って生活する者も多かったと推測される。また、袋山村は、全耕地が畑方の村であったが、反別では五反歩から三町歩所持の層が大きな比重を示している。それにもかかわらず石高では圧倒的に高一石から五石未満の零細層としてあらわれるのは、畑方の村であったため、石盛の低いことによって生じた現象である。

 つぎに屋敷持の数をみると、反別三町以上の農民層は、ほとんどが屋敷を所持しているが、二町歩以下の層では屋敷を持たないものがあらわれ、ことに五反歩未満の層に多い。なかには大吉村のごとく、百姓五二人のうち屋敷持がわずかに一二名という所もある。通説では耕地を所持し屋敷を持つものが一人前の百姓といわれているが、はたして屋敷を持たない百姓が独立した一人前の百姓ではなかったかいまのところなんともいえない。ただし越ヶ谷町の場合は、伝馬宿であった関係から、往還に面した表間口を有した屋敷持でなければ、越ヶ谷町の伝馬百姓とは認められなかった。

 一方大高持の上層農民をみると、きわだって目立つのが七左衛門村と越ヶ谷町である。このうち七左衛門村は名請人六九名中、高二〇石以上の層が一四名で村の総名請人口の約二〇・三%、高一〇石以上二〇石未満の層が二三名で約三三・三%、五石以上一〇石未満の層が二二名で約三二%である。反別では三町歩以上の所持者が一四名、一町歩から二町歩未満が二四名、五反歩以上一町歩未満が一〇名であり名請人一人あたりの平均反別は二町二反九畝である。

 これは他村に比較してもおよそ標準的な階層構成を示しているが、なかに石高で高一〇九石余、反別で一六町余の平均値をはるかに引はなした大高持がみられる。この名請人は七左衛門・大間野・越巻各村を含めた元の地名槐戸新田村の開拓者会田七左衛門の子孫である。しかも七左衛門村上位二名の大高持、八郎兵衛(井出)と彦右衛門(会田)も会田七左衛門家の一族であり、七左衛門村における会田七左衛門家の確固たる地位を知ることができる。

 なお天明・寛政期関東郡代伊奈氏の家臣であった会田七左衛門は、寛政四年(一七九二)伊奈氏失脚の際、その田畑屋敷は幕府に取上げとなったが、七左衛門地の〝お払い入札〟の触書(西方村「触書中」)によると、七左衛門村のほか神明下村と越巻村にも会田七左衛門の入札地が記されている。したがって元禄の検地時にもそれぞれの村で土地の名請人となっていたと思われ、会田七左衛門の元禄検地当時の名請地は予想外に大きなものであったとみられる。

 つぎに越ヶ谷町の特色としては、中世来の越ヶ谷の土豪とみられる会田出羽の子孫五郎平が挙げられる。五郎平の当時の名請地は、越ヶ谷町検地帳全五冊のうち現存する四冊分から集計すると、田畑六町六反七畝六歩、屋敷四町四反一畝一二歩、そのほか林や柳原五反三畝一四歩で計一一町六反二畝二歩となる。このうち四町四反一畝一二歩の屋敷地は、一〇筆におよび、なかに三町四反三畝一〇歩という広大な屋敷地がある。これは慶長十三年(一六〇八)、伊奈備前守差添書をもって家康から拝領された畑一町歩の地であり、検地によって打出された実坪による屋敷面積である。

 さらにこの検地帳で特徴のあることは、他村の元禄検地帳にみられない〝抱〟と〝分〟付の肩書がみられることであり、いずれも五郎平の名が付されている。この〝抱〟と分付のある箇所を、一筆ごとに例示すると第14表の通りである。

五郎平名請地
町反畝歩
3.3.6.21
3.3.0.5
屋敷 4.4.1.12
屋敷内訳
(1筆ごと)
3.3.6.21
6.9
2.7.1
6.15
9.15
1.5.7
4.15
1.1.9
1.0.13
9.18
5.1.18
柳原 1.26
合計 11.6.2.2
第14表 越ケ谷町五郎平分付百姓(検地帳5冊の内4冊の集計)
反畝歩
上田 5.7 長左衛門
5.18
1
1.24
4.24
2.24
中田 7.29
2.10
7.24
下田 25
下々田 1.23
4.24
中畑 1.9.21
4.25
7.6
下畑 1.10
反畝歩 (抱百姓)
7.9.24
反畝歩
上田 6.14 又兵衛
1
1.29
29
2
18
中田 2.12
5.6
3.20
下田 1.0.26
上畑 1.1.0 七郎左衛門
1.9
1.9
6.20
7.6
8.27
上畑 22 長左衛門
中畑 4.20
9.0
2.3
上畑 1.0.14 長四郎
5.8
上畑 3.26 市左衛門
7.6
中畑 3.3
上畑 6.2 吉兵衛
上畑 8.27 源兵衛
町反畝歩 (分付百姓)
1.2.3.19

 五郎平抱は、長左衛門でありその反別は一冊分の欠分があるので正しい数字ではないが、上田・中田・中畑等をあわせ七反九畝二四歩である。

 五郎平分では、又兵衛・七郎左衛門・長左衛門・長四郎・市左衛門・吉兵衛・源兵衛の七名であり、その反別集計は一町二反三畝一九歩である。このうち又兵衛は、「越ヶ谷町瓜の蔓」などから新井又兵衛とみられ、越ヶ谷宿中町の問屋兼名主会田家の代役を勤めていた者と推察される。なお、分付には血縁分家の場合も分付形式がとられるが五郎平の場合は、おそらく小作百姓の分付であろう。

 このほか各村々の上層農民も、それぞれ古来からの由緒ある在地農民であり、西新井村における高九〇石以上一〇〇石未満の名請者は岩槻太田氏の家臣であったといわれる堀の内の斎藤氏である。また大吉村における高七〇石以上八〇石未満の名請者は、古くから世襲名主を勤めた染谷氏である。