村の住民

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江戸時代の社会は、士・農・工・商の身分制度を基本に置き、しかもこの四つの身分の間に政治・経済的な幾多の差別が設けられているところに特徴があった。このうち士農の別がもっともはっきりしており、これが同時に江戸時代社会の基本的な身分対立でもあった。工と商の区分は職業上ではともかく、封建身分としては区別はなく、ともに町人とされていた。したがって近世社会の身分は、武士・農民・町人の三つにわかれ、それぞれ階級的に固定されていた。武士は当時の支配階級であり、上は将軍・大名から、下は足軽・中間にいたる多くの階層にわかれていた。当時の日本の総人口のうち、武士階級が約七%、都市に生活する商工者が六%、村落の居住者である農民が八四%、残りの三%が神官や僧侶という構成比率であったといわれる。

 このように、日本の人口のなかでももっとも大きな比率を占めた近世の農民は、それが村落に居住して土地を所持する限り、商人や職人であっても農間稼(かせぎ)と称して百姓身分に取扱われた。そして村を構成する主体は、村内に田畑と家屋敷を持ち、その支配者である領主に対し貢租と夫役を負担するところの、本百姓とよばれる人びとであった。これら本百姓も、その多くは中世の名田(みょうでん)を請作(うけさく)して加地子(かじし)(小作料)を名主(みょうしゅ)に納めていた作人や下作人であり、度重なる近世の検地によって耕作権(作職(しき))を認められ、しだいに自立していったものである。近世ではこの本百姓が領主財政をささえる基礎的な階級であった。そのため、幕府は慶安二年(一六四九)に公布した「慶安の御触書」においても、「地頭(領主のこと)は替るもの、百姓は末代その所の名田を便(たよ)りとする者」と述べ、末代にわたる百姓の耕作権を強調している。

 村の住民のなかには、本百姓のほか、土地を所持しないため、年貢や夫役を直接に負担しない水呑と称された無高百姓があった。近世初期の頃の水呑は、名子(なご)・被官(ひかん)・家抱(けほう)・譜代(ふだい)などと呼ばれた本百姓の従属下人や、その家から充分に独立していなかった血縁の家族などで占められていた。しかし時代が下ると、土地を分与されない二男三男などのほか、質地などで士地屋敷を失う者もあり、地借(じがり)・店借(たながり)として水呑層(小作人)に転落する者が増大していった。また、初期の本百姓は、領主に対して貢租のほかに夫役を勤めたので〝役家〟とも呼ばれた。もとの夫役には陣夫・普請夫・詰夫・伝馬役などの労役があったが、近世に入ると夫役の比重が減少し、夫役が高割になったり金納化されるようになると、役家制度は形だけのものとなった。