村の階層

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当地域の村々は、僧侶を除き主に百姓と水呑によって構成されていたが、この階層を八条領四条村の正徳四年(一七一四)の「宗旨改帳(しゅうしあらためちょう)」によってみると、総戸数三二軒のうち百姓が二三軒、水呑が八軒、他に医師が一軒となっており、同じく享保二十年(一七三五)の改帳では、戸数三九軒のうち百姓が二九軒、水呑が一〇軒となっている。また、七左衛門村御料所分の天保五年(一八三四)の「宗門人別改帳」によると、戸数七〇軒のうち六三軒が百姓、八軒が水呑、同じく明治三年(一八七〇)には戸数七二軒中五六軒が百姓、一六軒が水呑という構成であり、時代の下るにつれ水呑層のふえる傾向にあった。

 一方越ヶ谷宿では、宿場であるという性格上、士地を所持せず小商売や駄賃稼をいとなむ地借・店借層が多く、耕地や屋敷を所有した百姓に対する住民比率は、地借・店借層が大きな比重を占めていた。たとえば、大沢町は寛延三年(一七五〇)現在、総戸数三八五軒のうち百姓が六三軒、地借が三〇軒、店借二六二軒、そのほか寺院・山伏・道心者が二五軒という構成であり、その大部分が無高層によって占められていた。これら水呑や地借・店借の無高層は、村や宿場を問わず一段低い身分とされ、村政や町政にも参与できないのが一般的であった。

 また、村や町のなかでそれぞれ一人前の百姓であっても、伝統的な家格によって幾通りもの階層に分けられることがあった。これら家格は、長い間におのずからその家の格式として固定されたもので、草分けの役家も、その後成立した本百姓の株も、みな家格として村内における地位が規定されているのがふつうであった。寄合の席次、祭礼の宮座、そして通婚の範囲から墓地の位置に至るまで、この家格によってきめられることが多かった。家格は、家の経済力とは一応無関係であり、村の伝統として強い力を発揮していたのである。