名主

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はじめは、村の中でももっとも家格の高い家が、名主などの村役人を世襲で勤めることが多かった。村役人には名主(庄屋)・年寄(組頭)・百姓代の種類があり、これを村方三役または地方三役と呼んでいる。このうち名主は村役人の長で一村を代表し、諸般の実務や統制にあたった。その職務は、領主が農村支配のため設けた行政機構の末端をにない、年貢の納入、戸籍の事務、法令の伝達、訴訟の調停、村内治安の取締りなど、広い範囲にわたっていた。それだけに名主の権限は村内でははかり知れないほど強いものであった。しかもこれら名主の中には中世来の伝統的な権威を具えた系譜をもち、江戸時代を通じて世襲名主を持続した旧家も数多くみられる。

 当地域の主な例を挙げると、麦塚村の名主中村氏は、岩付衆中村右馬助の系統をひくものと伝えられ、天正七年(一五七九)の北条氏裁許状を所持していたことから、岩付太田氏に所属していた中世来の旧家であることは確かである。東方村の名主中村氏(現当主重義)は、「中村家系譜」によると、太田道灌に仕えた大相模郷の郷士であったとあり、慶長十七年(一六一二)三月の検地には検地の案内名主を勤めたことを記している。同じく東方村の名主中村氏(現当主千枝)は、武蔵七党野与党の系譜をひく小相模次郎能高の後裔といわれる旧家であるし、恩間村の名主渡辺氏は、同家の家譜によれば渡辺綱の系譜をひく渡辺氏の後裔であり、文保年間(一三一七―一九)にはすでに恩間に定住していた郷士であったという。西新井村の名主斎藤氏も、代々岩付太田氏に仕えていた西新井の古い郷士であったといわれ、天正十四年(一五八六)四月の斎藤氏先祖の墓石が西新井西教院の墓地に残っている。なお後代に建てられたとみられる天正十八年六月の銘のある太田下野守内室の墓石が元斎藤氏屋敷地の一隅にあるが、このことに関する由緒は「斎藤家系図」にくわしい。

西新井の斎藤氏墓石

 増林村の名主では今井氏が中世来の旧家であるとみられる。今井氏の墓地には観応二年(一三五一)、宝徳三年(一四五一)、明応二年(一四九三)、永禄七年(一五六四)の銘のある宝篋印塔があるので、古い増林の郷士であったのは確かである。同じく増林村の榎本家に伝わる「榎本家記録」によると、榎本家の先祖は、熊野三党の一人榎本真俊の後裔であり豊臣方にあったが、元和元年(一六一五)の大坂落城後当地に流れ来て、名主今井八郎左衛門方に身を寄せた。その後八郎左衛門の娘を娶って百姓となり増林村に定住したといわれる。このように戦国の戦乱による武士の落人が、在地の土豪等に身を寄せ、そのまま当地域に土着して家を興したものも多かったとみられる。たとえば蒲生村の名主中野氏の先祖も、もとは豊臣氏の家臣であり、天正十八年、秀吉に従って奥州征討に向ったが途中病いとなり、瓦曾根に止まって病気療養後、慶長二年蒲生村に土着したといわれる(「中野氏系譜」)。ちなみにこの瓦曾根村は『新編武蔵風土記稿』によると、浅見大学・須賀大炊介、同雅楽之助、同玄蕃、同将監などが、古くからこの地を開発した所であるとあり、中野氏はこの開発人の何れかに世話になったとも考えられよう。

増林の今井家墓石

 また瓦曾根村の名主中村氏の先祖は、中村式部少輔一氏の弟中村彦左衛門一栄であり、慶長五年六月、沼津城で徳川家康に昼食を献じたことにより、信国の短刀を下賜されたという。のち、その子与左衛門の代、当地に土着したと伝えられる(「新編武蔵風土記稿」)。同じく瓦曾根村の秋山氏の祖は、甲斐武田氏の家臣秋山伯耆守信藤であると伝えられ、天正十年三月武田氏没落の後、その子長慶は、武田氏の遺孤千徳丸を守り、七左衛門村(当時槐戸新田)に潜居したが、のち瓦曾根村に土着したという。千徳丸は間もなく早世したが、寛永十四年に建立されたその供養塔とみられるものが、瓦曾根照蓮院の秋山家墓地にある。「御湯殿山千徳丸」とある五輪塔である。信藤の子長慶はのち瓦曾根照蓮院の住職となったが、西方村の山谷組名主秋山氏はこの瓦曾根秋山氏に出自を持つ家の一人である(「秋山氏由緒之記」)。

瓦曽根照蓮院の千徳丸墓石

 なお、長慶の兄虎康の娘は、年一五歳のとき徳川家康の側室となり於都摩(おつま)の方と称したが、家康の五男武田信吉を生んでいる。信吉は天正十八年葛飾郡小金三万石の領主に封ぜられ、のち文禄元年佐倉四万石に移封、さらに水戸一五万石の城地を与えられたが慶長八年二一歳で病没した。

 一方於都摩の方は天正十九年十月、年二四歳で小金で没したが、貞享元年(一六八四)水戸の徳川光圀によってその墓石が再建された。この墓石は、現在松戸市の史跡として平賀の本土寺の墓地に祀られてある。つまり瓦曾根村の秋山長慶は、於都摩の方と叔父姪の関係にあった訳である。

 このほか、袋山村の名主細沼氏は、その先祖が楠正成の一門であったといわれ、はじめ細谷氏を称していたが、戦国期甲州から落ちのびて武州見沼郷に止まり、のち袋山村を開発して当地に定住し、その姓も細沼と改めたという(細沼家「記録帳」)。西方村藤塚組の名主石塚氏も、その先祖は常州石塚村の人で、代々佐竹氏に仕えていたが、天正年間当所に土着した。そして寛永四年の検地には、石塚家の屋敷が検地役人の宿所とされたが、野先で茶を立て、検地奉行にたてまつったことで、とくにこの地が茶立免という耕地名がつけられたといわれる(「石塚家系譜」)。

 以上の例にみられるように、村々の名主はそれぞれ由緒ある系譜を伝えている家が多く、江戸時代を通じ伝統的な家格の権威が村内を統制する一つのよりどころでもあったようである。

 さて、名主は一村に一名ないし二名置かれているのが普通であったが、大きな村では一村を何組かに分け、組毎に名主が置かれ、月番あるいは年番で職務を勤めていた。たとえば増林村では一村を上組・中組・下組とに分け、各組一名づつの名主を設けていたし、西方村では、村内を田迎組・山谷組・西方組・藤塚組とに分け四人の名主が置かれていた。なお西方村では名主の不法をめぐって村内の騒動に進展し、この結果寛政五年(一七九三)から大境組が新たに設けられ、以後五名の名主が置かれていた。

 また二給所以上の知行地をもつ村では、領主の支配所ごとに名主が置かれるのが普通である。宝暦六年(一七五六)幕領と岩槻藩領の二給所となった西新井村では、御料所・私領所に名主が置かれ、御料名主・私領名主と区別されて呼ばれている。ただし御料と旗本五給、合わせて六給所であった七左衛門村では、各知行所ごとに名主が置かれるのが原則であったが、実際は旗本知行五給所を一括して、特定の名主が実務を処理していたようである。このほか他村から名主を依頼されたり、あるいは領主から命ぜられて他村の名主を兼帯することもあった。たとえば文政八年(一八二五)四条村名主丘兵衛が、柿ノ木村の兼帯名主を勤めたこともあったし、東方村名主庄右衛門が、文政七年に見田方村の名主を兼帯するよう領主から命ぜられたこともあった。