江戸時代には、各村々の名主と、それを支配する代官や郡奉行との間に、割役名主(惣庄屋)と呼ばれた数ヵ村単位の組村の統卒にあたる長が設けられていたところもある。越谷地域では、忍藩領であった通称柿ノ木領では、この八ヵ村を統卒する割役名主が設けられており、見田方村の宇田氏が代々世襲でこれにあたっていた。宇田氏は忍藩から名字帯刀を許され、藩からの法令を管下の名主に伝達したり、村々の訴訟を調整したり、村々の風俗匡正などの取締りにあたったが、さらに十手を与えられ、犯罪人の仕置道具も備えていたといわれるので、検察的な業務も行使していたとみられる。
また岩槻藩でも割役名主を置いていたとみられ、幕末期の岩槻藩領西新井村宛の廻文には、たとえば「前書之通御沙汰ニ付、其村々御名主中一人ヅツ五日四ツ時(一〇時)御会所前へ御揃可被成候」などの通達が、いずれも本宿村関根惣右衛門の名で発せられている。本宿村関根氏は農民身分の者であるので、岩槻藩の割役名主の一人であったのはあきらかである。なお、代官支配の御料所や六浦藩領、および旗本知行所などには割役名主が置かれていない。