名主ははじめ、草分け百姓中のなかでももっとも有力なものが任ぜられ、代々名主を世襲するのが一般的であった。かれらは前述のように、中世来の土豪や名主(みょうしゅ)の系譜をひく者が多く、村民に対して伝統的な権威をもっていた。かつて村が自己の支配地であったころからの慣例で、村政を独断専決したり、村民を私事に使役することがはじめはきわめて当然のことであった。
享保五年(一七二〇)、砂原村の組頭(年寄)六左衛門が、名主と争って組頭を免ぜられた。争いの原因は、その後の争論の経過からみると、名主が新年の挨拶に慣例として牛蒡(ごぼう)その他の土産品を領主屋敷に持参するが、これは私事であるので惣百姓がこれを負担する理由はない。名主が公私用にかかわらず、江戸出府に際しては、慣例として百姓負担による送迎用の馬を出すが、この送迎用の馬を強制的に百姓へ割当てるのも不当である。また名主手作地の耕作手伝いを、権威をもって小前百姓に申付けているが、これも納得できない。そのほか助郷伝馬などの割当ても独断的なはからいであり、万事名主は横暴であるという理由であった。この争論はその後幾度か訴訟沙汰によって繰返された結果、名主独断の村政は徐々に改革されていったが、それはともかく、初期の名主とはどういうものであったかを、この砂原村の史料(越谷市史(三)三三二頁)が象徴的に示している。
いずれにせよ、時代が下るにしたがい、名主は単なる村政の一役職に位置ずけられ、なかには選挙や年番で交代に名主を勤める村も現われるようになった。それとともに、名主その他の村役人の給料も、村議定などによって明確に表示されるようになった。これら村役人の給料は、村によりまた時代によってその方法も一様ではないが、当地域ではおよそ役高引の方法がとられていた。役高引とは村役人の持高のうちから、役人給料として一定の高を除くものであり、この除かれた高に課せられる伝馬・普請などの諸役を免除することである。ただし諸役免除といっても、この免除高は、余荷(よない)(助合)といってその分を小前百姓が肩替りして負担するものであった。
砂原村では宝永二年(一七〇五)に領主から高三〇石の名主給料役高引の証文が下付されていたが、ほかの村の場合、多くは村内の自主的な議定によって村役人の給料が定められた。たとえば七左衛門村の明和三年(一七六六)の村議定では、従来の名主給は、高一〇〇石に付金一両宛(受持の村高がかりに高五〇〇石ならば金五両)、それに名主の持高のうち高一二石の役引で勤めてきたが、惣百姓困窮につき以来持高のうち高二五石の役引だけでこれを勤めると定められている。私領西新井村の宝暦七年(一七五七)の議定では、名主役高引は二〇石、年寄高引は一三石となっている。文化八年(一八一一)の大吉村議定では、村役人の交代にあたり、従来名主給として高二〇石の役引、年寄給として高一二石の役引で勤めていたが、他村とのつりあいから名主給は高三六石の役引、年寄給は高二〇石の役引に改めることになった。しかし新役人はこの役高引上げを拒み、役務に馴れるまでは従来の役高引を据置くと申出ている。
また文政八年(一八二五)四条村名主丘兵衛が、柿ノ木村名主を兼帯したときは名主役料は高一〇〇石の役引、月番組頭が高八五石の役引というとりきめがなされていた(越谷市史(三)三七二頁)。このほか登戸村の安永二年(一七七三)の議定によると、登戸村世襲名主が幼少のため、成長までは年番年寄が名主を代役する。その代償として名主方から名主代役の年番年寄に一年あたり金三両を支給するというとりきめがされている。
このように役人給料は村によってそれぞれ異なっていたが、およそ村内の経済事情や受持高(区域)の大小、その他で自主的に定められた。と同時に御用・村用によって出張の際の旅費や小遣(手当)なども、これまた村々によって自主的に規定されていた。