自然発生的な村落共同体の連帯制は、近世の村の成立とともに、五人組という隣保組織に再編成され、貢納や犯罪防止に利用された。当地域の村々に五人組が制度的に編成されたのは、いつごろかつまびらかでないが、寛永三年(一六二六)の鷹の巣高札(西方村「触書上」)には、鷹の巣を盗んだ者は死罪とし、「五人組は籠舎(ろうしや)たるべき事」とある。籠舎とは牢屋のことである。さらに寛永二十年の幕府法令には、「壱人身の百姓煩に紛なく、耕作成兼候時は、五人組は申に及ばず其一村として相互助合田畑仕付、其収納候様可仕事」とあり、独身者が病いで耕作できないときは、五人組は勿論、一村で助け合って田畑を仕付け、年貢納入に差支えないようにせよとあるので、五人組の連帯制はかなり早い時期からのものとみられる。
五人組はいわゆる〝向三軒両隣〟の五軒をもって一組とすることが原則であるが、四軒、六軒という組合せの場合もあった。この五人組は、組員の婚姻・養子縁組・家督相続・遺言・廃嫡などに立会うとともに、耕作の助力、品行の監督監視、田畑の売買書入・質入などにおける証書の加印、その他貢租滞納者の貢租代納や犯罪の連帯責任も負った。たとえば証書の加印では、延宝二年(一六七四)十二月の七左衛門村井出家の質地証文には、「右の条々五人組并親類共相談の上、此の如くしち物に相渡し申し候」とあって、名主や親類のほか、五人組六名の証人連印がある。さらに西新井村新井家文書の承応二年(一六五三)十月の質地証文には、「我等五人組とも罷出申分仕るべく候」とて、同じく五人組五人の証人連印がある。江戸時代を通じ質地などの証文には、このように必らず五人組の加印を必要とし、後々までの責任を負うことになっていた。
このほか潰(つぶ)れ百姓や退転百姓の防止、主のいなくなった名跡(土地屋敷)の管理やその相続人の承認等に至るまで、五人組の連帯義務が課せられていた。たとえば、明和四年(一七六七)、家族が死に絶えてその名跡を継ぐ者がいない西方村又右衛門家を、親類の与左衛門が引取ろうと申出たが、又右衛門家の名跡を残したいという又右衛門の後家の遺言をうけた五人組は、適当な相続人がきまるまではこれを渡すことはできないと、この申出を拒否している。その後幾度か相続人の話があったが、結局まとまらず、約九〇年後の安政二年(一八五五)現在、まだ又右衛門地は組合預かりであった。この間の相続問題では、五人組のうちの一人が反対したことで破談になったこともあった(西方須賀家文書)。
一方五人組のなかで犯罪人を出した場合は、五人組全員が過料銭をとられることも珍しいことではなく、悪事の詫証文にも、以後悪事は行なわないという証人として、五人組一同が加印することになっている。このように五人組は組員相互の監視義務や、扶助義務が課せられていたので、五人組は親類以上の深いかかわりあいがあったのである。