越谷地域の寺院は、その多くが中世かもしくは近世初期に創建されている。ことに近世の初期には、ある地域では寺院がおびたたしく造立された。たとえば『新編武蔵風土記稿』の大杉村の項に、松伏村の石川民部は道忠法眼と号し、たいそうな仏法の篤信家で、近世の初期に真言宗大杉村の妙音寺をはじめ、実に二一ヵ寺を創立したと記している。しかし幕府は寺院の乱立を好まず、新寺の創立は極力これをおさえ、適当な規模で宗教的に人民を管理するかたちを推進していった。慶長年間にすでに葬式法要の僧侶と現世利益を中心とした祈祷の僧侶とを区別しようとした傾向もみられる。ついで寛永八年(一六三一)の幕府法令によると、寛永八年以前の寺院を〝古跡〟、それ以後の建立を〝新地〟と称し、新寺の創建を堅く禁止している。なかには特別な理由で新地と称される新しい寺院が建てられることもあったが、当地域の寺院は、中世来もしくは近世初期の創建になるものが多く、ほとんどが古跡の寺院である。したがって越谷地域の中世の歴史を知るうえに大きな手がかりを与えているものといえよう。
ついで幕府は寛永九年、寺院の本末牒を作成することを命じ、ここに本末関係が樹立された。越谷地域でのこのときの本末牒について示せばつぎのごとくである。
まず新義真言宗について言えば、寛永十年五月の日付による真福寺以下江戸四ヵ寺の署判がある「関東真言宗新義本末寺帳」という本末帳がある。これには有力な江戸四ヵ寺中、知足院(筑波山)以外の三ヵ寺を始めに記し、以下本寺と末寺・門徒の組合せを記している。越谷地域の寺院としては、まず嶋の金剛院(末田村)の末寺として「越ヶ谷高照院御朱印あり寺領五石」と記されている。これは四町野村迎摂院のことである。ついで倉田明星院の末寺五ヵ寺を記したなかに「越ヶ谷一乗院、寺領十石」とある。これは三野宮一乗院であるが、寺領一〇石とあるのは誤りである。さらにみて行くと「大相模大聖寺本寺三宝院御朱印有寺領六拾石」とある。西方不動がどのような経過で醍醐の三宝院を本寺とするに至ったかは明らかでないが、とにかくこの頃本末系統に組み入れられることが至上命令であったことが判明する。さらに「葛西照蓮院本寺三宝院御朱印有、寺領五石」というのが目に入るが、これには記載の混乱があるようであり、ずっと末尾に行って下総国の末に近く「石上蓮花院」の末寺に葛西金蓮院を掲げ、そのあとに「武州越ヶ谷照蓮院右金蓮院末寺御朱印有寺領五石」とある。この寺は瓦曾根村の照蓮院であるが、『新編武蔵風土記稿』に葛飾郡金町村金蓮院の末寺であると記すのと一致する。
浄土宗については、寛永九年霜月、増上寺了学と署判のある「浄土宗諸寺之帳」と、「浄土宗増上寺末寺帳」とがある。前者には、
御朱印同崎西郡平方郷東山知恩院末山
林西寺
寺領廿五石
同末寺
同備後村 称名寺 同 大畠村 西光寺
武州西河 新福寺 同 横手村 宗元寺
同須賀村 正林寺 同 東村 西楽寺
同所 源当寺 同 洲崎村 月照院
同一破目 円福寺 下総藤塚村 藤楽寺
とあるのが目に入るが、これらは風土記稿とくらべて少しずつ異同がある。称名寺以下四ヵ寺はいずれも風土記稿では備後村であり、寺号も、称名・真福・勝林・還到となっている。つぎの一破目は一之割村であり、宗元寺は崇源寺、藤楽寺は東国寺となっている。また横手・東・洲崎(戸崎の誤か)は、いずれも平方村の小字であって、これらは後世まで林西寺と密接に結びついていた。したがって寛永の段階でそれほど正確に本末が記帳されたと思えぬが、後世まで一貫するものをすでに示しているといえる。
また増上寺末寺帳には、清浄院がつぎのように記されている。
武州六ヶ村 清浄院
寺領拾弐石、神谷弥五助伊奈備前守付被下候、同末寺五ヵ寺有
この末寺五ヵ寺というのは、風土記稿と一致する。すなわち同書に、川崎村正徳寺・大杉村浄閑寺・大松村相心寺・船渡村無量院・船渡村龍正寺が大松村清浄院の末寺であったことを記している。なかでも無量院の開山相雲は天正二年寂、浄閑寺の開山龍文は文禄二年寂としているから、ごく早期に大松を中心に浄土宗の教線が敷かれていたことは推察される。六ヵ村というのは、清浄院の縁起の拡充書たる「栄広山由緒著聞書」(越谷市史(四)所収)に、〝新方領六ヶ村〟という語がみえ、新方領大吉・向畑・川崎・大杉・大松・船渡の六つを〝六ヶ村〟と総称する伝統があったことを示すものであろう。
さらに本末牒は、元禄五年(一六九二)にも再度整理のうえ作成され、江戸時代を通じて固定されたものになった。この本寺末寺の制度は、本寺あるいは本山とよばれる大寺が、その系列下にある小寺を末寺とよんでその指揮下におき、本寺の監視のもとにこれを統制する制度である。本寺末寺の関係は、すでに平安時代に成立していたが、当時は本寺が末寺を保護するという形から成立したものであった。しかし江戸時代は、幕府が寺院をその統制下におくためのものであった。そして本寺は末寺に対する僧侶の任命、僧階の付与、住職の任免、色衣の着用許可、上人号の執奏などを行なうとともに、本山行事への奉仕を命令したり、本山維持費などの徴収を義務づけた。末寺はまた広汎な権限を付与されている本寺に対しては、絶対服従を強(し)いられた。
このようにして確立された寺院の本末関係の越谷地域での状況を、主として『新編武蔵風上記稿』によって示すと、第15表のごとくである。
これを宗派別に大きく分けると、越谷地域の寺院はそのほとんどが真言宗と浄士宗によって占められている。なかでも圧倒的に多いのは真言宗であり、ことに京都仁和寺の系統を引く末田村金剛院の末寺が荻島・新方・出羽の各地区に広汎なひろがりをみせている。また京都醍醐三宝院の流れを引く西方村大聖寺や、同じく醍醐三宝院を本寺に持つ金町金蓮院の流れを引く瓦曾根村照蓮院が、大相模・越ヶ谷・増林の各地区に広く分布されているのが注目される。そのほか名都借村清滝院の流れを引く別府村慈眼寺(現金剛寺)の末寺が、蒲生・大間野両村を中心にその周辺地域に分布されており、倉田村明星院の流れを引く三野宮村一乗院の末寺が大袋地区にひろがりをみせている。また野田の清水村金乗院の末寺が増森を中心に分布されており、本末の関係寺院が地域的に集中しているのが特徴として確認される。
一方浄士宗では、京都知恩院を本寺に持つ越ヶ谷町天嶽寺と平方村林西寺の末寺が寺院所在地周辺を中心に分布をみせ、芝増上寺の流れをくむ大松村清浄院が大松村周辺に末寺を持っている。このほか禅宗曹洞派では野島村浄山寺と増林村勝林寺ならびに大林村大林寺の三ヵ寺があげられるが、それぞれ本寺を異にしている。
以上みてきたように越谷地域の宗派別本末関係は、寺院所在地周辺を中心に分布されているが、なかでも末田村金剛院を筆頭に、瓦曾根村照蓮院、別府村慈眼寺、三野宮村一乗院らを本寺とした寺院が根強い広がりをみせているのが注目される。
それではこうした本末寺院の関係は、具体的にはどのような形で維持されたのであろうか、瓦曾根村照蓮院文書安永九年(一七八〇)の「記録帳」(越谷市史(三)八九〇頁)によってこれを例示するとつぎのごとくである。年代は不明ながら照蓮院住職が隠居したので、照蓮院の檀中惣代と照蓮院の惣末寺が、連印をもって同寺の本寺である葛飾郡金町金蓮院にその後住願いを提出している。この後住の披露には〝継目〟の御祝儀として金蓮院主に白銀三枚、御菓子代金一〇〇疋、転衣御祝儀金一〇〇疋、御樽代金一〇〇疋、このほか玄関房主に銭三〇〇文宛、帯刀者に銭二〇〇文宛、道心者と下人に各銭一〇〇文宛を差出している。これに対し金町金蓮院では照蓮院側で準備した触頭愛宕真福寺院住に金二〇〇疋、役者に金一〇〇疋、取次に金二〇〇疋宛の祝儀金とともに添輪を持参し、照蓮院住職の就任許可願いを提出している。また住職の色衣着用許可願いに際しては、黒衣から香衣着用のときで金七両二分と銭八〇〇文、香衣から浅黄着用のときで金一両二分と銭八〇〇文を色衣〝起立書〟とともに本寺へ納入することになっていた。ただし黒衣から浅黄の寺格に移転したときは二色願いとなるが、このときは金七両二分八〇〇文ですんだという。このほか本寺には例年年頭の挨拶として御祝儀銭一貫三〇〇文を納める例である。また本寺金蓮院や触頭真福寺が寺院の修復を行なうときは〝勧化先例〟として一定の助成金を納めることになっており、末寺住職が死去したときも、本寺へ回向料として金三分、随身者へ銭二〇〇文宛を持参することに定められている。これら金額は決して固定されたものでなく、そのときによって異なっていたようである。たとえば天明八年(一七八八)、照蓮院住職が病気で隠居したので、後住願いが本寺に出されたが、このときは継目料として金一両、菓子料金一分、酒樽一荷、随身者ならびに小姓に銭三〇〇文宛、家来に銭一〇〇文宛を金蓮院に納めている。
また照蓮院の末寺には、小林村東福寺をはじめ一三ヵ寺あったが、いずれの末寺でもその住職就任のときには、本寺照蓮院に誓約書を提出しなければならなかった。すなわち、
一札之事
一拙僧今度何院寺に住職仕候に付、相守べき条々
一御本山御条之通り違背仕間敷事
一当山出仕之座階は、旧格の如く上臈之差図に任べき事
一門末移転之節は、御本寺より御眼鏡次第違背仕間敷事
一自坊修覆油断なく仕べき事
一境内に有来り候竹木、猥に伐取申間敷候事
一寺附田畑并祠堂金、什物等請取候通り、後住紛失之なき様仕べき候て、後住へ相渡申べき事
一何事によらず、門末徒党ヶ間敷義仕間敷事
右之通り一ヶ条にても違背仕候ハヽ如何様之御科仰付られ候共、御恨み申上間敷候、共為加印一札件の如し
年号月日 何村何院寺
照蓮院様 受人何院寺
御役者中 受人其村々の役人印形
というものである。そして本寺が朱印改めなどで費用がかかるときにも、末寺一同が本寺のために金を集めてこれを助ける仕来りであった。