幕府は、寛永十四年(一六三七)に起きたキリシタン宗徒を中心とした島原の乱後、キリシタンを厳禁する方針をとり、同十七年に宗門改役を設けてこれを取締った。宗門改役は幕命によりキリシタン教徒を厳刑に処する一方、その改宗を奨励して仏教に帰属させ、仏教寺院の檀徒になることによってその罰を許した。こうしてキリシタン教徒が仏教に改宗したとき、その所属した檀那寺から寺請証文を提出させたので、証文の未提出者を確認することによって容易にキリシタン教徒の摘発を行なうことができた。
この寺請証文は、はじめキリシタンの改宗者に限ってこれを提出させていたが、寛文四年(一六六四)には、諸藩にも宗門改役が設けられ、この頃、全国民がキリシタン教徒でないことを証明するために、村ごとに宗門改帳を提出させる制度が成立した。以来例年のように村役人が各家ごとの同居人を含めた家族の名前・年齢ならびに異動などを書上げ、檀那寺の僧侶からキリシタンでないことを証明させて代官・領主にこれを提出させた。ここに各村の住民はすべて宗門改めをうけることが義務づけられたが、これを避けた者はもちろん、調査漏れのあったときもその本人や村役人まで罰せられることがあった。
こうして従来各人の信仰心によって任意に寺院とのつながりを持った人びとは、強制的に一宗旨の寺院の檀那として登録されたので、強力な寺檀関係がここに成立した。なかでも越ヶ谷町の浄土宗天嶽寺は、一町一寺の特権が付与されていたので、越ヶ谷町の住民はすべて天嶽寺の檀那でなければならなかった。したがって他所から転居した者は、たとえ宗派が異なっていても浄土宗に転宗し天嶽寺の檀那になった。「越ヶ谷瓜の蔓」によると、「浄土宗に改宗致さざる輩は、近郷あるいは大沢等へ立越し申し候様、宿役人一同申渡し候に付、引越し候者もままこれあり候へ共、居付の百姓等は悉く改宗仕り候」とあり、一町一寺の特権を与えられたとき、転宗をきらって転居した者もいたが、ほとんどは浄土宗に転宗して天嶽寺の檀那になったとある。また、越ヶ谷内藤家の「記録」(越谷市史(四)七二九頁)のなかの人別送りには、「宗旨の儀は真言宗三野宮一乗院旦那に候得共、其御宿方へ引移り候に付、同院方は申断り、天嶽寺檀那に相成り候積り、寺送り取置き申し候」とある。すなわち、いままでは真言宗一乗院檀那であったが、越ヶ谷町に転居するにあたり、一乗院檀那をことわり天嶽寺檀那に転宗するとある。
こうした一町一寺の特権を付与された事由は、元荒川の改修にあたり新流路が天嶽寺の敷地にかかってけずり取られたため、その代償として与えられたという説もある。また「越ヶ谷瓜の蔓」の言うところに従えば、越谷山迎摂院は越谷郷の古社である久伊豆・浅間・愛宕の諸社の別当を兼ね、越谷郷一帯に檀家の多い寺であった。けれども浄土宗の天嶽寺があらたに越ヶ谷村に檀家を獲得しはじめたころ、切支丹信徒の処置につき問題が発生した。すなわち越ヶ谷の新町組に切支丹宗の者が居住していたのを天嶽寺が摘発してこれを役所に報告した。役所でこれを調査した結果、これは類族というにすぎない(本人が信仰している訳ではない)のだからとて御仕置に仰付られなかったが、本人が下総宮前寺(下総葛飾郡宮前村にあった寺か)に属する者の類族であった関係上、迎摂院檀家からこれを引難し、天嶽寺小菩提(本檀家に准ずる扱いのことか)に仰付られたという。その際、天嶽寺は、越ヶ谷町の町並が、日に月に繁昌するにしたがい、今後切支丹類族はもちろん、立帰り者(切支丹宗から一時的転向者)や入満(いるまん)・伴天連(ばてれん)の徒輩が入りこむことがあり得るので、家並同宗にいたし、相互に心付て穿鑿致させるように改めさせたいと奉行所へ願いでた。奉行所はこれを認め、越ヶ谷町は一ヵ寺に限るという方針が決定されたという。
文政期の編述であるので、事実を必ずしも正確に伝えてはいないかも知れないが、越ヶ谷宿の成立と幕府の檀家制度確立政策との間には、このような密接な結びつきがあったと解してさほど不自然ではないのである。いずれにせよ越ヶ谷町は一町一寺の定めであったので、天嶽寺の檀家は越谷地域の寺院ではもっとも多く、天保十四年(一八四三)の人別改書によると、当時越ヶ谷町の総戸数が五四二軒、この人数二五六五人がすべて天嶽寺の檀徒であった。