浄土宗の呑龍上人

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平方の林西寺に朱印が与えられたのは、由緒ある寺院であることのほかに、浄土宗の傑僧然誉呑龍(呑龍上人)が住持をしていたことにもよるであろう。家康が関東に君臨してやがて全国の覇者となるという時代に、越谷市域のうちに浄土宗の傑僧が居たということは、後世まで大きな影響を与えたのであり、ここでこの僧の生涯と事業について触れておく必要があるだろう。

 呑龍は弘治二年(一五五六)武蔵国埼玉郡新方領一ノ割村(現春日部市)に生れた。(以下呑龍についてはほとんど、「然誉大阿呑龍上人伝」〈『浄土宗全書』第十七巻所収〉と『呑龍上人伝』〈昭和四十八年群馬県太田市大光院より発行〉とによる。)父は井上信貞といい、岩付太田氏の家臣であった。幼時には近くの大場村光明寺に通って勉学したといい、一四歳で近くの平方村の林西寺(当時の住持は第八世岌弁(きゅうべん))に入り得度をうけて僧となり曇龍と称した。

 そして一五歳で江戸の貝塚村(現千代田区麹町辺)増上寺学寮に入寮した(増上寺はのち芝に移る)。天正一二年(一五八四)かれが二九歳の時、鎌倉の大長寺から徳望の高い源誉存応(普光観智国師)が迎えられて増上寺の第一二世住持となった。以後かれはこの存応のもとで大いに鍛えられ、やがて存応門下の十哲の一人に数えられるようになる。

平方林西寺呑龍上人墓石

 もっともこの年の秋には平方の林西寺の岌弁が隠退することとなり、あとを呑龍が継いだので(岌弁は下総国中里の西岸寺に退いた)、夏・冬の安居の時は増上寺に居り、他は平方に居るという生活が続いた。その間に平方村あたりが大旱魃のために作物が枯れ、憂慮すべき事態となったことがあった。この時村人は雨乞を呑龍にたのんできた。呑龍はつぎのように答えた。「雨乞は世諦であって、わが宗の本意とするところではない。しかし天下和順風雨以テス時ヲとは経典にも述べられており、わが宗もその例にもれない。雨は龍神のつかさどるところ、念仏法門は万徳の帰するところである。さいわい近くに龍神の森があるから、村人一同とともにそこに赴き、龍神祠の前で百万遍念仏を唱えることにしよう。そうすれば龍神の援けを受けることができよう」と。そこで龍神の森での百万遍が行なわれたが、たちまちにして黒雲が現れ慈雨がふりそそいだ。こうして呑龍の念仏は村を救うことができた。

 平方村における呑龍への信頼はいやが上にも高まった。かれは、平方に住持たる十数年の間に、かたわら相模国矢部の来迎寺、武蔵国八幡山長福寺を開創、請ぜられては下総国中里西岸寺二世住持、下野国佐野宝竜寺四世住持をも兼ねたが、平方の林西寺はこの間に寺院規模を整え、近隣に聞こえた有力寺院となった。

 慶長五年(一六〇〇)かれが四五歳の時、武蔵国多摩郡滝山の大善寺(のち八王子に移る)の住持に請ぜられた。増上寺の存応と深い関係にあったことは従来どおりである。「駿府記」には、駿府に住むようになった家康のもとに、慶長十六年十月、同年十一月に増上寺の存応が訪れたことを記すが、この両度とも呑龍がともなわれている。ことに十月の条には、了的・廓山(いずれも存応の高弟)とならべて「是国師之御弟子、当時浄土之知識也」と記されていて、いかに評判が高かったかがわかる。同十七年三月には了的・伝察ともに駿府に赴いて家康の面前で長時間法談をなしたこともある。

 家康は以前から上野国新田郡の「先祖の地」(家康ははじめ松平姓を称したが、やがて新田一族の得川氏の子孫だと称して徳川を名乗るようになる)に於て、先祖新田義重の菩提を手厚くとぶらう方策を立てていたが、慶長十六年堂々たる伽藍の大光院が新田郡太田の地に開創された。同十八年、呑龍は請われてその住職となる。その後、夢の中で、海龍王の前で説法している時、悪龍が潜んでいて邪魔をしようとしたので、かれみずから金翅鳥となってその悪龍をのみこんでしまうという一場を見たといって、従来の曇龍を呑龍に改めた。

 大光院の住持をしている間に、貧しくて養育のできない家庭の幼児を引取って寺に幾人も預かったことは有名である。このことから、後世まで大光院における「とり子」または「お弟子入り」と称して、呑龍上人の加護により健全な成育が保証されるという信仰上の慣習が続いたという。

 元和二年(一六一六)になって、かれが、禁鳥の鶴を捕えた野武士が逃げこんできたのを庇い、幕吏の追求を拒んで渡さず、ついにその男を出家させ相ともに辺地に逐電する、という事件を起した。同七年に将軍秀忠の恩免ということで罪がゆるされ、大光院に戻った。

呑龍上人自作尊像(太田大光院蔵)

 かれは元和九年に、六八歳で寂したが、「浄土伝統総系譜」(『浄土宗全書』第十九巻所収)にはその弟子一四人を掲げている。すなわち、文宗(武州備後村勝林寺中興)・存也(総州藤塚東国寺開山)・雲龍(上州二日町村光源寺開山)・泉察(武州大畠村西光寺中興)・超運(上州新田大善寺開山)・三誉(播州明石光明寺開山)・龍屋(駿州新宿善境寺開山)・祖岌(武州一割村円福寺開山)・天応(上州新田教受院開山)・長呑(武州備後村還到院開山)・良縁(江戸牛込来迎寺開山)・流伝(雲州宍道西方寺開山)・龍天・本誉(出羽庄内潮蓮寺中興)である。右の傍点の分はいずれも呑龍の生地一ノ割に近接する地点で、したがって、平方の林西寺にも近い。還到院等は林西寺の末寺となっている。一四人中五人までがこの地区の開山または中興となっているのであり、いかに呑龍の感化影響が大きかったかが察せられる。なお、呑龍の弟子の証誉清伝は、新方領増林村清伝寺の開山となっている。