近世の貢租課役

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江戸時代の租税は、幕府や諸藩によってその種類に多少の差異があったが、これを概括的にみると、本途物成(ほんどものなり)・小物成・課役の三つに分けることができる。このほか、本途物成の付加税に相当する〝高掛物(たかがりもの)〟があり、幕府の直轄領では、伝馬宿入用・六尺給米・御蔵前入用の高掛三役が代表的なものである。さらに、現在の村民税に相当するものに、村内の道路や堤防の修築あるいは村役人の給料など、村内諸費支弁のための〝村入用〟があった。

 当時は、現在のように工場における機械生産を主とする時代と異なり、そのほとんどが農業生産に頼っていたので、田畑などの耕地が社会的富を生みだす最大の要素であった。したがって、幕府や諸藩が徴収する租税の大半は、農業生産の基盤である土地に課せられていたのである。この富を生みだす土地を、江戸や京都・大坂などの市街地を除けば、大別して二つに分けることができる。その一つは検地を行なって村の高に組入れられた耕地、つまり田畑である。もう一つは未耕の原野や山林・川・沼・海などの土地である。このうち耕地化された田畑に掛ける租税を本途物成といい、江戸時代の租税のほとんどを占めていた。

 また原野・山林、あるいは河川・湖沼・海などの土地は、原則的には領主の所有地であるが、村民がこの原野・山林・湖沼・海などから、刈敷や薪炭や魚猟などの用益を得ている場合は、小物成という雑税が賦課された。小物成にはこのほか、農業以外の商・工業、あるいは輸送などの生業に課せられた〝運上金〟〝冥加金〟もこのうちに含まれている。

 このほか庶民の労働力の提供を求めた課役も租税の一つに数えられる。課役は、古代律令制社会の租・庸・調のうちの庸にあたり、古くから広く行なわれてきたものである。殊に戦国時代は多数の軍夫役の徴用を必要としたため、庶民の労働力がもっとも大きな租税の対象となっていた。天下が統一され、平和が続くにしたがって、これら庶民に課せられた直接的な労働力の徴用(労働地代)は少なくなり、耕地からの収穫物に税をかけた生産物地代が貢租の主要部分になっていった。だが江戸時代に課役がまったくなくなったというわけではなく、街道筋に近い村々では、宿場の助郷を命ぜられ、人馬の直接労働が賦課されていたし、河川や道路あるいは橋梁などの土木普請や藻刈り、川浚い、さらには御鷹御用における水夫人足の徴用など、多くの労働課役が賦課されていた。