田畑に賦課した本年貢を本途物成と呼んでいる。単に本途とか物成ともいわれたし、本免あるいは取箇(とりこ)とも称される。この本途物成には、田方物成と屋敷地を含めた畑方物成とがあり、両者とも米納が原則であるが、畑方では大豆や貨幣で代納する場合が多かった。越谷地域をはじめ関東ではこれを代永といい、畑方年貢はおよそ夏成と秋成の二季にわけて金銭で納めていた。永とは永楽銭のことをいい、主に室町期から戦国期にかけて広く流通していた基準的な貨幣である。慶長十三年(一六〇八)、幕府は永楽銭の通用を禁止したが、その質が良かったことからこれを擬制化し、金一両を永一貫文(一〇〇〇文)に換算して帳簿上の計算に用いた。
ともかく幕府諸藩の財政は、基本的にはこの本途物成によって賄われたため、新田の開発を奨励して耕地を拡げ、あるいは徴租法を改正するなど年貢増徴のための努力が続けられたが、幕府直轄領では、八代将軍徳川吉宗による享保改革の直後、その年貢量は江戸時代を通し最高を示した。