高掛物

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高掛物は高役とも呼ばれ、江戸時代の本年貢に課せられる付加税の一種で、御料・私領にかかわらず、その村高を基準にして賦課された。明暦二年(一六五六)九月、日光道中千住・草加・越ヶ谷・粕壁・幸手・栗橋の六ヵ宿が、伝馬課役の過重を理由に、高役免除の訴願をしてこれが許された。この訴状によると、高役の内容は次のごとく多岐にわたっていた。

  (1)鷹の餌犬、高一〇〇〇石につき一年に六疋宛、一疋につき代銀二三匁五分づつ納めさせる。

  (2)春と夏に実施する土木普請の工事には、人足や諸材料を多分に出す。

  (3)大小のかざり竹と杭木を納めさせる。

  (4)荏・大豆・小豆・小麦・大麦・太餅を納めさせる。

  (5)米搗き人足は、高一〇〇〇石につき一年に二五人宛出す。

  (6)御殿・御茶屋ならびに堰や圦橋の普請に、縄・竹・杭木を出す。

  (7)うなぎを高一〇〇〇石につき一年に六本宛納めさせる。

  (8)鳥の餌として、籾・くも・けらなど江戸城の御用物をすべて納めさせる。

  (9)くこ・もち草・よもぎ・しょうぶ・蓮葉などを納めさせる。

越巻の冬枯の蓮田

当時この高掛物の中には現物上納や労役徴用も含まれていたようである。こののち高掛物は、次第に米や金銀で代納するようになったが、天領(幕府直轄領)では伝馬宿入用・六尺給米・御蔵米入用の賦課が代表的なもので、〝高掛三役〟と呼ばれた。

 このうち伝馬宿入用は、宝永四年(一七〇七)、五街道の宿駅に交通取締りとして宿手代を配置した際、宿手代に支給する給米としてこれを賦課したのがはじまりといわれる。幕府はその後正徳二年(一七一二)に宿手代を廃止したが、伝馬宿入用は続けて徴収し、五街道の問屋・本陣に対する給米や宿駅の諸費用の補助にこれをあてていた。この課率は、その年によって不同であったが、享保六年(一七二一)に至り、高一〇〇石につき米六升宛と定められ、毎年浅草の幕府米蔵に納入させた。

 六尺給米は、幕府で使用する輿(かご)かきや、江戸城などの台所の使用人足に支給する米であり、この米を村高に割当てて徴収した。はじめはこの人足たちを実際に村々から出していたが、いつの間にか人夫は幕府で雇い入れるようになり、そのかわり雇い入れた人夫の給米を各村の高割りに徴収することになった。この課率もこれまた不同であったが、享保六年に高一〇〇石につき米二升宛と定められた。

 御蔵前入用は、浅草に設けられていた幕府米蔵の諸経費にあてるために賦課したもので、元禄二年(一六八九)、高一〇〇石につき関東では永二五〇文宛と定められた。

 天領の村々にかかるこれら高掛三役のうち御伝馬宿入用は各村一率に賦課されたが、六尺給米と御蔵前入用は、助郷を負担する村ではこれを免除されるか軽減された。たとえば村高一五九〇石余の西方村では、寛政十二年(一八〇〇)まで、米八斗一升四合の御伝馬宿入用と、米二石七斗一升三合の六尺給米、永三貫三九〇文五分の御蔵前入用を毎年納入していたが、翌享和元年、村高の内三一三石が越ヶ谷宿助郷に組入れられてからは、次のような高掛三役となっていた。

   一米八斗壱升四合   御伝馬宿入用

   掛高千四拾五石五合

   外 高 二百七拾六石六斗九合 助郷高 高三拾四石九斗四升九合 潰地高 当酉ゟ免除

   一米二石九升     六尺給米

   掛高外高右同断

   一永二貫六百拾弍文五分御蔵前入用

つまり六尺給米と御蔵前入用は、西方村高のうち助郷勤高その他を除いた高一〇四五石余に課せられていたことが知れる。

 なおほとんどの高が越ヶ谷宿助郷であった七左衛門村の場合、高六一八石余の御料分にかかる高掛三役をみると、

   一米三斗八升壱合   御伝馬宿入用

   掛高 一六石五斗八升六合五勺

   外高 六百拾八石四斗

   一米三升三合     六尺給米

   掛高外高右同断

   一永四拾壱文五分   御蔵前入用

であり、六尺給米と御蔵前入用は、村高のうち助郷勤高を免かれた分、一六石余の高に課せられただけである。

 このほか高掛物には、御料・私領に関係なく、臨時に徴収される国役金がある。国役金は、大河川の堤防普請や朝鮮来聘使、あるいは禁裏造営などの入用に賦課された。このうち朝鮮来聘使の国役の例にみると、明和元年(一七六四)に、高一〇〇石につき金四両余の国役が村々に賦課されている。この際、多額の国役と助郷の過重な負担に抗して、中山道筋に、いわゆる伝馬騒動がおきたことは有名である。西方村の史料によると、幕府はこのときの国役金を伝馬騒動の影響によるものか保留して徴収せず、明和七年になって納入を命じたようである。西方村では多額な国役金の一時納入は困難であることを訴え、一〇ヵ年賦の納入を願って許された。その後の朝鮮来聘使は文化五年(一八〇八)にも行なわれたが、このときは高一〇〇石につき金一両の国役であった。