定免法

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当地域の年貢賦課法は、一部藩領を除いてはおよそ畝引検見法が実施されたとみられるが、この検見取法の欠点として大略つぎの三点が指摘できる。(1)検見の手続きや実施方法が煩雑で、農民の気苦労と出費が大きい。(2)検見の実施にあたっては、私情の入りこむ余地が多く、不正がともないやすい。(3)検見がすむまでは収穫ができないため、刈入れの時期を失ったり、裏作の農期がおくれたりするおそれがある。

 このうち、とくに検見役人の私情によって年貢量が左右されることが多く、このため検見役人に対する贈賄や饗応が一般的になり、村びとの負担がそれにともなって大きくなった。しかし検見に手心が加えられ年貢が軽くなれば、結果的には農民にとって利益であった。

 一方幕府の財政収入を、農民に課した年貢高の傾向からみると、幕初から元禄期までは年貢増徴の努力がある程度満たされた状態であった。その後、年貢収入は停滞から減少の傾向が続くとともに、支出面の加速度的な増大から、幕府の財政は極度の窮乏に追いこまれた。ついに享保七年(一七二二)には「御恥辱を顧りみず」とて、諸藩から高一万石につき一〇〇石宛の〝上げ米〟を命ずるにいたっている。

 こうした幕府財政の窮乏を打開するため、将軍吉宗は積極的な財政立直し政策を強行した。倹約令や新田開発もその一環であったが、徴租方法として、有毛検見法を実施したり、定免法を採用したのもそのあらわれである。定免法とは、前記のとおり、一定の年季をきめ、この期間はその年の豊凶にかかわらず、一定の年貢を取立てる方法であり、年季の切替時にはこれに割増をつけ、年貢高をつぎつぎとせり上げていくのが特徴であった。この方法によると、幕府にとっては検見による不正が防止できたし、安定した年貢高を確保できる利便があった。

 ただし災害などで田畑作毛にいちじるしい損失があったときは、定免年季中でも検見を願い、実収量を基礎にした年貢高を求めることができた。これを〝破免検見〟という。この定免法による年貢の賦課は、早い例では伊予松山藩が、延宝七年(一六七九)に実施したといわれるが、古河藩領西方村の年貢割付状によると、元禄元年(一六八八)から同十年の領主交代まで、一定の租率による一定の年貢高が課せられており、当時古河藩も定免法を採用していたとみられる。このほかの幕府領で定免制が実施されたのは前記のごとく享保八、九年(一七二三~四)からであり、幕末にいたるまでこの徴租法が続けられていた。