年貢割付状

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つぎに掲げる史料(市史編さん室蔵)は、慶長十年(一六〇五)、伊奈備前守忠次によって発せられた、登戸村の納税通知書ともいえる年貢割付状である。江戸時代の納税は、直接農民個人に通知されたのではなく、村単位に一括して通知され、村々では村の責任において各人に割付け、これを一括納入することが義務づけられていた。

   巳年登戸村可納米銭割付之事

  一上田四反拾五歩      四ッ半取

    此内二反歩引 同人内ニ引

   此取九斗弐升弍合

  一中田壱町弐反拾四歩    三ッ半取

    此内五反歩 同人内ニ引

   此取二石四斗六升六合

  一下田拾九町四反壱畝拾弍歩 弍ッ半取

    此内拾弐町三反歩 同人内

   此取拾七石五斗三升五合

   米合弍拾斗石九弍升弍合

  一上畠壱反七畝廿三歩    五十文代

    此代八拾九文

  一中畠九畝弍拾歩      三十文代

    此代弐拾九文

  一下畠壱町八反八畝廿四歩  二十文代

    此代三百七拾八文

  一屋敷七反壱畝三歩     百文代

    此代七百拾壱文

   代合壱貫二百七文

  右如此相定候上は、十一月廿日を切而急度可致皆済候、若其過於無沙汰は、以譴責ヲて可申付者也、仍如件

   巳九月廿一日                                 伊備前印(花押)

                                   登戸村

                                    名主 百姓中

慶長10年袋山村年貢割付状(国立史料館蔵)

 この割付状はいたって簡略な形式であるが、江戸時代初期の割付状は上に掲げた袋山村年貢割付状の写真にみられるごとく、いずれもこの程度のものが普通である。さて登戸村の割付状によると、登戸村の上田は四反一五歩であるが、このうち二反歩に相当する損毛があったので、四反一五歩から二反歩を除き、残り二反一五歩に対し一反につき四ッ半取、つまり四斗五升の租率をかけ、年貢高は九斗二升二合である。中田・下田とも上田と同じ方法で畝引のうえ、残った反別におのおの租率をかけ、合せて米二〇石余がこの年の登戸村が納めなければならない田方の年貢である。この徴租法は畝引検見法に相当する。また畑方は、上畑が一反につき五〇文、中畑が三〇文という代銭納になっており、合せて一貫二〇七文が畑方の年貢高であった。畑方は検見の困難から畝引きが行なわれておらず、おそらく反取法が用いられていたとみられる。いずれにせよ畑方年貢は貨幣で代納されたため、生産物を貨幣にかえる必要があり、自給自足を原則とした農村経済にも、貨幣が入りこんだのは、かなり早い時期であったことが知れる。

 つぎに、次頁に掲げた二葉の写真は、慶長十年(一六〇五)の袋山村年貢割付状と、同じく袋山村の貞享三年(一六八六)の年貢割付状の一部である。末尾の「袋山村名主中」と、「名主惣百姓中」の宛書をくらべてみると、前者は上方に大きく、後者は下方に小さく記されている。慶長年間は、まだ徳川政権の支配体制がかたまらないときであり、支配者側も租税を納める農民にたいそう気をつかっている様子がみられるが、幕府の支配体制が整備された寛永期(一六二四―四三)頃からは、その宛書も遠慮なく下隅へ小さく記すようになった。こうした書式の変り方からも、江戸時代における支配者と農民の、立場の移りかわりをうかがうことができよう。

慶長年10袋山村年貢割付状の奥書
貞享3年袋山村年貢割付状の奥書

 次頁の写真は、同じく袋山村寛永三年(一六二六)の年貢割付状の紙背(裏面)である。これには「寅年御割付惣百姓出合申わり仕候、以来は六ヶ敷事申間敷候、為後日如此候、仍而如件」と記され、袋山村百姓一同の連署印がある。すなわち、寛永三年の年貢を、惣百姓が立合って各人に割当てた、後で面倒なことは言わない、後日のため署名捺印をしたというものである。これは村役人による年貢割当の不正や不公平を防止するための措置で、割付状を惣百姓立合のうえ見届けさせることは幕府の郷村法令によって定められていた。しかし袋山村寛永元年以前の割付状の紙背には惣百姓の署名がないので、おそらく割付状の紙背に惣百姓が署名するようになったのは、寛永二、三年頃からのことであろう。

年貢割付拝見連署印

 なお、年貢割付状の書式は、時代が下るにしたがい、草銭・林銭等雑多な小物成が付されたり、国役・運上の類が記された長文なものになった。