一般に年貢米金は、交付された年貢割付状にもとづき、数回にわたって村単位に領主へ納入されたが、そのつど代官や村方役人から〝小手形(こてがた)〟とよばれた仮の請取証が村に交付された。そしてその年度の年貢納入が完了すると、改めて年貢皆済目録という年貢納入ずみの証明書が交付された。しかし当地域の幕領では、寛保三年(一七四三)以前のこれら皆済目録が発見されていない。西方村「旧記弍」によると、「寛保三年、柴村藤右衛門様御支配に相成り、皆済目録御渡し候、其後年々諸御代官様方皆済目録御渡し候得共、伊奈半左衛門様数年御支配中、皆済目録一通も御渡りこれなく、全く伊奈様御家ふふ(風)と相見へ、皆済目録御渡しこれなき御事に相見へ候」とある。つまり当地域の幕領村々は、近世初期から伊奈氏の支配にあったが、寛保三年から各代官の分割支配に移された。その後、各代官はいずれも皆済目録を交付したが、それ以前の伊奈氏はこれを出していなかった。これは伊奈家の家風であったとみられる、といっているので、あるいは伊奈氏はある時期に皆済目録を出さなかったときがあったかも知れない。
つぎに参考までに七左衛門村御料分の寛延二年(一七四九)分の年貢皆済目録(七左町井出家蔵)を掲げる。
巳御年貢皆済目録
高六百弐拾五石四斗九升壱合五勺 武蔵国埼玉郡 七左衛門村
一米弐百拾石弐斗弐升三合 本途
一永弐拾壱貫三百六拾七文 本途小物成
一永八貫八百八拾八文六分 口米代
此米六石六合
此斗立六石三斗四升九合 但巳冬御張紙直段三両増三拾五石ニ付四拾九両かへ
一永六百四拾壱文 口永
一米三斗七升五合 御伝馬宿入用
一米壱升四合 六尺給
一永拾七文六分 御蔵前入用
一永三貫百四拾文 [子ゟ午迄七ヶ年賦(挿入)]馬飼料
米弐百拾石六斗壱升弐合
納合 此斗立弐百弐拾弐石六斗四升七合
永三拾四貫五拾四文弐分
右納次第
米弐百弐拾弐石六斗四升七合 [買納(挿入)]御廻米
永三拾四貫五拾四文弐分 金納
外永弍拾八文四分 包分永
右は去巳御年貢本途口米永高懸物返納物共、書面之通就令皆済小手形引替一紙目録相渡者也
寛延三年午三月 舟安右衛門(印)
右村 名主
年寄
惣百姓
これによると、七左衛門村御料分の寛延二年度分の主な貢納は、田方の現米納と畑方の代永納ならびに口米・口永・の三つである。このうち口米・口永とは、本税に課せられる付加税で、貢米一俵につき口米一升、貢永一〇〇文につき口米一升、貢永一〇〇文につき口永三文と定められ、はじめは代官所の事務費用にあてられたが、享保十年(一七二五)から幕府に納入されるようになった。このほか六尺給米などの高掛物と、幕府から拝借した馬飼料の返納金がある。なお時代が下ると皆済目録には細餅・太餅・大豆・囲籾・国役・御廻米会所入用などの代永が数多く列記されるようになり、さまざまな名目で雑税が課せられたことが知れる。