西方村の概況

526~527 / 1301ページ

越谷地域の村のうち、比較的長期にわたって年貢高の推移を追うことができるのは、関係史料が多く残存している西方村と袋山村である。そこで以下、両村の年貢高の推移を検討するが、その前に、それぞれの村概況を紹介しておこう。

 西方村は現在の越谷市の南部に位置する相模町地域にあたる。

 江戸から約五里、元荒川の自然堤防に立地した古くからの集落であり、江戸時代を通じ同村の基礎的な土地台帳として用いられた寛永四年(一六二七)の西方村検地帳によれば、村高は一五三六石という大村である。この村高のうち田高は一二八四石余、畑高は二五二石余で、田畑の比率は八三対一七である。反別では田方が一三四一反余、畑方が三三三反余でその比率は八〇対二〇であり、その多くが田で占められている。西方村の村高と反別は、その後用排水路の敷地などによる〝永引〟や、潰れ地の再開発などによる〝起返り〟などで多少の増減があったが、幕末まで大きな変動はない。

西方村八条用水路

 西方村の支配関係は、天正十八年(一五九〇)徳川家康関東入国から、大聖寺領を除いてすべて幕領であったが、寛文十一年(一六七一)に西方村高のうち一七三石余が旗本万年佐左衛門の知行地に分給された。ついで延宝七年(一六七九)万年領と大聖寺領を除いた一三六二石余の村高が古河堀田領に組入れられた。その後、元禄十一年(一六九八)西方村の古河藩領分は再び幕領に復し、以後幕末まで幕領・万年領・大聖寺領の三給所の村であった。

 なお西方村は大村であったので、村内を西方・藤塚・田迎・山谷・大境(寛政三年新設)の五組に分け、それぞれに名主を置いて行政諸事務の単位組織としていたが、年貢は領主別に一括して勘定されかつ納入された。