袋山村の概況

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袋山村は現在の越谷市の北部大袋地区に位置し、宝永三年(一七〇六)に元荒川の改修(直路化)が施工されるまでは、その名の示すように南を除いた三方が袋状に元荒川に囲まれていた。村内には、図で示すように古川・天沼・根通・堤通・三田方・堤外の六つの耕地字があり、村内行政の単位として下組・北組の二つの組に分けられ、組ごとに名主が置かれていた。人家は享保六年(一七二一)の明細帳によると総数七二軒、このうち六一軒が百姓、九軒が地借、寺院と堂が各一軒であり、人口は総数三九二人である。この戸口の数は、江戸時代を通じ年代が下ると若干の増加を示すが大きな変動はない。

堀替前の袋山村略図<br>宝永3年の堀替以前の袋山村<br>破線は堀替後の元荒川流路

 当村の支配関係は、徳川氏関東入国から幕末まで幕領に属し、代官の支配下にあった。村高は正保年間(一六四四~四七)成立の『武蔵田園簿』によると、高三六四石であったが、元禄八年(一六九五)の検地で二三七石二斗三升二合の村高に定められた。この間村の耕地面積は第17表のごとく大きな変化はみられないが、村高は一挙に一三〇石近く減少している。これは上・中・下畑の等級格下げによる反別石盛の変化に起因するものとみられる。村高は上・中・下等の等級にしたがった耕地面積に石盛をかけたものだからである。すなわち、袋山村における下々畑は、それまで一反三畝一四歩であったが、元禄検地によって、おそらく、上・中・下の各畑から下々畑に組入れられたものであろう。その面積は実に二五町九反五畝二五歩に及んでいる。なお袋山村の耕地石盛は、上畑と屋敷地が七斗、中畑が五斗、下畑三斗、下々畑一斗となっている。これは一反につきたとえば上畑では米七斗の収穫があると査定されたもので、この石盛は貢租の基準になったものである。ただし畑方の場合は一般的に貢租は貨幣で代納された。

第17表 袋山村耕地等級別面積比較
貞享3年 元禄8年
町反畝歩 町反畝歩
総面積 67.6.1.9 68.7.3.26
上畑 18.4.7.20 13.1.5.4
中畑 20.3.2.13 12.6.1.26
下畑 27.3.9.4 15.1.3.10
下々畑 1.3.14 25.9.5.25
屋敷 1.2.8.18 1.8.7.21
堀替後の袋山絵図(享保11年)

 元禄検地は普通きびしい打出しが行なわれ村高の大幅な増加がはかられていたが、袋山村の村高減少という特異な現象は、元荒川に囲まれた砂地で、水旱損の被害をうけやすいという地理的な条件によったものであろう。

 袋山村の最大の特徴は、反別六八町三反六畝二四歩(元禄八年検地)の耕地がすべて畑方であることである。その後寛延三年(一七五〇)に古川跡地の新田検地が実施され、一九石七斗二升四合の田高が村高のうちに加えられたが、この反別は三町八反三畝二七歩であり、畑方の面積に対し約五%にしかすぎない。こうした典型的な畑作地域であった関係上、享保六年の袋山村明細帳によると、野菜や午蒡を江戸に出荷していたとあり、袋山村の貨幣経済は早くから進行していたものとみられる。