袋山村の現存する近世初期の年貢割付状は、慶長十年(一六〇五)・十三年・十四年・十五年・十九年・寛永元年(一六二四)・三年・四年・十四年・二十年・二十一年それに貞享三年(一六八六)の一二通である。この間の年貢高と耕地面積の推移をあらわすと、上に掲げた第18表のごとくである。これによると、慶長年間から貞享年間にかけて、袋山村の耕地の面積や上・中・下畑の位付別面積がしばしば変動している。すなわち慶長十五年から同十九年までの間、寛永四年から同十四年までの間、寛永二十一年から貞享三年までの間に、耕地面積ならびに位付別面積がそれぞれ訂正されている。普通耕地反別位付は、検地によって定められるので、開発された耕地はそのつど検地されて村高へ加えられる。したがって開発地域の村々では、江戸時代の初期に度重なる検地をうけていた。たとえば八条領上馬場村には、慶長十七年、慶長二十年、元和七年、寛永四年、それに貞享元年の検地帳が現存しているので、しばしば検地が実施されていたのが知れる。しかし袋山村の場合は、開発耕地の拡大とは逆に、慶長十五年から慶長十九年の間にみられるごとく、一〇町近い耕地が減少している。これは三方を荒川に囲まれた袋山村の地理的な条件から、耕地の一部が流路に浸蝕されたとも考えられ、その不安定な耕地の状態をうかがうことができる。いずれにせよ、袋山村の耕地面積や、位付別面積の変動は、どのような手続きを経て行なわれたかいまのところつまびらかでない。
慶長15年まで | 慶長19年 | 寛永4年まで | 寛永21年まで | 貞享3年 | |
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町反畝歩 | 町反畝歩 | 町反畝歩 | 町反畝歩 | 町反畝歩 | |
上畑 | 12.0.9.1 | 17.4.3.21 | 17.8.8.11 | 18.4.7.20 | 18.4.7.20 |
中畑 | 21.2.9.22 | 24.9.8.11 | 24.4.8.17 | 20.2.9.6 | 20.3.2.13 |
下畑 | 42.2.3.2 | 25.8.0.8 | 26.0.6.27 | 27.2.5.19 | 27.3.9.4 |
屋敷 | 2.0.6.20 | 1.2.1.18 | 1.2.3.18 | 1.2.8.28 | 1.2.8.28 |
下々畑 | 1.3.14 | ||||
合計 | 78.6.8.15 | 69.4.3.28 | 69.6.7.23 | 67.3.1.13 | 67.6.0.19 |
貫 | |
慶長10年 | 20.837 |
13 | 32.187 |
14 | 32.187 |
15 | 31.124 |
19 | 28.118 |
寛永元 | 43.477 |
3 | 36.597 |
4 | 37.691 |
14 | 29.226 |
20 | 23.178 |
21 | 17.173 |
貞享3 | 29.051 |
なお袋山村貞享三年の年貢割付状には、天和元年(一六八一)高入の表示箇所があるので、天和元年に新田検地があったとみられる。
さて現存する年貢割付状によって袋山村の年貢高をみると、慶長十年度に二〇貫八三七文の年貢銭が、同十三年には三二貫一八七文と大幅な上昇をみせている。これは慶長十年度の一反あたりの年貢量が、上畑で五〇文、中畑で三〇文、下畑で一五文取であったのが、同十三年度は、上畑六〇文、中畑五〇文、下畑三〇文、新畑二〇文と、それぞれ一反あたりの租率が上っているからである。この租率は年によって上下に変動があるので、なんらかの方法で年々検見が実施され、その収穫量に見合った年貢が賦課されたものであろう。
つぎに袋山近世初期から元禄七年(一六九四)まで、この間に史料的に大きな脱落があるが、既存する一五通の年貢割付状と、それに元禄十年から明和四年(一七六七)までの現存する年貢勘定帳四六冊により、袋山村の年貢高推移を示したものが次のグラフである。これによると、袋山村の年貢高は、その年の作況により上下に大きく変動をみせているが、とくに急激な低下を示すのが元禄期である。この間袋山村の村高が三六四石余から二三七石余に大幅な減少をみせて村高が固定されたのが元禄八年である。しかし村高が一三〇石近く減少していたにかかわらず、宝永期を境に年貢高は上昇をみせ、近世初期の年貢高、もしくはそれ以上の上昇を示す。
ここで元荒川の掘替改修が宝永三年(一七〇六)であったことに注意したい。つまり改修以前は水損などによる不安定な耕地状況がそのまま年貢高の低下に反映されているが、改修後の宝永三年以降はその年によって上下の変動があるにせよ、改修前の元禄期のごとき年貢の低下はみられない。これはあきらかに元荒川改修によってその地理的条件が幾分改善された証左であろう。
宝永三年以降の年貢高は、その年により高下があるが、ほぼ永三〇貫文から永四〇貫文、つまり金三〇両から金四〇両、かりに米一石を金一両とすると、米三〇石から四〇石の間を上下し、なかには永四五貫文の年貢高を示すこともあった。享保改革の年貢増徴策により、袋山村の年貢は元文二年(一七三七)に最高の永四七貫文を示すが、翌三年からは定免による永四三貫文の安定した年貢高が持続される。この袋山村の平均年貢高以上の高い年貢で固定された定免は、排水の便が悪いため元荒川の改修後もなお水損に悩む袋山村にとっては打撃であったに違いない。
しかし畑方年貢の貨幣代納は、そのまま高い年貢率を示すものとは限らない。たとえば江戸時代諸物価の基準となった米の価格をみると、慶長年間から承応年間(一六五二~一六五五)までは、およそ白米一石につき銀二〇匁から三〇匁前後を上下し、明暦年間から万治年間(一六五五~六一)には銀四〇匁台から五〇匁台ときには六〇匁台から七〇匁台を示す。元禄年間以降(一六八八~)はその年により上下に大きな変動があるが、銀七〇匁台から八〇匁台が平均的な相場であり、幕末期には一〇〇匁台が続く。(三井文庫編『近世後期における主要物価の動態』)
すなわち貨幣価値は時代が下るにつれ下落をみせているので、慶長・寛永期の年貢代永高と、元禄期以降の年貢代永高とでは一率にこれをみることはできない。この点からみると、袋山村における近世初期の年貢率は予想外に高かったことが知れるが、その後の代永納が貨幣価値の下落の割には増大していない。
このためか、ほとんどの耕地が畑方で、年貢も貨幣代納であった袋山村の貢租率を、近隣の村々が「五・三・一の石盛というのは、上畑五ツ、中畑三ツ、下畑一ツという事、このごとく下免の村方は当郡稀にして少し、隣村袋山村は至って下免の場所にて五・三・一の石盛なり、皆人の知る所なり、田畑ともに此村の御縄延これあり候て、百姓懐内至極よろしき土地なり、古川開発いたし田方も内証にて余ほどありといえども、御年貢米等は些なり、高持百姓というとも五、六石もこれある者は、他村二、三拾石にもあたるという事なり」(越谷市史(四)一九九頁)と評していた。すなわち袋山村は年貢が少なく農民の懐(ふところ)具合が至ってよい。五、六石の高持であれば他村の二、三〇石の高持と同じ位にあたる、といっている。幕府の年貢収奪は主に田方年貢に向けられていたといえよう。なお袋山村の実際の石盛は上畑・中畑・下畑それぞれ七・五・三であり、上記引用史料中の五・三・一は誤りと思われる。